ゴアマガラと少女

 廻り集いて回帰せん

 

 ゴア・マガラは、手負いだった。
 人を侮っていたが故に随分と痛い目に遭った。
 翼を破られ、自慢の鉤爪も砕かれた。ズタズタに裂かれた胸の奥で心臓がゆっくり鼓動を刻むと、血潮が勢い良く巡り、身体中が鈍く痛み、呼吸をするのも精一杯だった。
 出血の所為か、だんだんと後ろ足が痺れてきた。ゴア・マガラは感覚がなくなってきた後ろ足を引き摺って、他のモンスターの縄張りを息を殺し踏み締める。
 滴る血は土に吸われていき、風は死の臭いを運んできた。
 ゴア・マガラは、考える。
 人には、勝てないのかと。
 己は、此処で朽ち果てるのかと。
 所詮は自然の営みの輪廻に過ぎないのかと。
 何も考えるなと心臓が応え、生き延びろと、遺伝子に刻まれた闘争心が叫んだ。
 そうだ、生きなくてはならない――ゴア・マガラは、咆哮を上げた。
 怒りの余韻は大地を震わせ、木々を薙ぎ倒し、消え掛けた生命に火を灯した。
 視覚を補う鱗粉を纏い、ゴア・マガラは駆け出した。森を抜け、転がるように渓谷を走り、谷底に滑り込む。
 乱雑に天を向く岩場の最奥が、最愛の寝床である。
 平たい岩盤の、歪に落ち窪んだ部分に、身体がすっぽり入るのだ。荒れくれものの轟竜の所為で、今はもう日差しを遮るものはないが、以前は、頭上に覆い被さるように、突出した岩盤があった(そこから滴った雨水が、長い年月を掛け真下の岩を穿ったのだった)。
日差しを浴び、傷口を丹念に舐め、軋む身体を丸めて、眠りに就いた。

 嗅いだことのあるにおいがして、ゴア・マガラは目を覚ました。
 どれくらい眠っていただろうか、身体を撫ぜる風は冷たく、吸い込んだ空気は湿っている。秋の虫の声に紛れて遠くからなにか音がする。首を擡げ、耳を澄ませば、聞こえてきたのは、人間の声だった。
 ハンターだろうか。
 今襲われたら、まずい。
 息を殺し、身を潜める。
「兄様、ここは何処ですか?」
 頭上から聞こえた声は、ずいぶんと幼く思え、警戒は杞憂だったことを悟り、ゴア・マガラは尾を揺らす。
「赦してくれ、じいさんが死んじまった以上、目が見えないお前の面倒を見ていく自信がないんだ」
「そんな…… わたしは、いい子にしています……」
「これ以上は無理なんだ」
 ゴア・マガラは翼を震わせ、退化した視覚器官を補う為の鱗粉を撒き、発達した嗅覚と、聴覚器官に意識を集中させる。
 きゃあと小さな悲鳴がして、背中に何か落ちてきた。「それ」はゴア・マガラの翼の付け根で弾むと、足元に鈍い音と一緒に転がり、辺りは再び静寂に包まれた。
 崖の上の人間の気配が、足早に遠ざかって行く。
 投げ落とされた「それ」は、紛れもなく、人間だ。ゴア・マガラが一飛びで昇り降りできる崖は人間には高く、落ちれば、骨を折ったりするだろうに、この子供は、実に運がいい。
「兄様……兄様……」
 子供は、ぴいぴいと鳴いている。腹を空かせ、無謀にも巣から身を乗り出し、親を呼ぶモンスターのようだ。

 いつからか——寝床のあるこの谷底に、人間が人間を棄てに来ることに、ゴア・マガラは気付いていた。
 
 きっと、人間も、食うものに困っているのだろう。
 群れをなす肉食のモンスター達は足手まといとなる弱者を食らい糧にするが、人間はそれをしないのが不思議だった。
 棄てられた人間は、ハンターとは違い、年老いている者が多かった。離れていても、死の臭いが漂ってくるのだ。棄てられる人間の中には、生命力に満ちた子供もいたが、生きる術を知らず、泣き叫ぶだけだ。そんな人間達は皆、力尽きる前にモンスターに嬲られ、餌となっているのも、ゴア・マガラは知っていた。

 だから、今目の前にいるこの子供も、そうなる運命なのだ。

 自分が食い殺してしまってもいい。腹が減っているし、苦労なく栄養を摂取できる。都合がいい。
 子供は、ゴア・マガラの神聖な寝床をもぞもぞと動いて、汚している。ゴア・マガラの前足に、地面を這っていた冷たい手が当たり、漸く、子供はゴア・マガラの存在に気付いたらしい。

「何かいるの?」

 手探りで立ち上がり、ゴア・マガラの額にぺたぺたと触ってきた。
 噛み砕いてやろうか――。
 ゴア・マガラは口を開いた。
「何も見えないの、あなたはだあれ?」
 ゴア・マガラは口を閉じた。
 阿呆な人間もいたものである。
 ゴア・マガラは、当然人間の言葉は話せないから、こつんと、額で子供の身体を軽く押した。先程まで弱々しく鳴いていた子供とは思えなかった。
 そのうち何処かに行くだろう。目が見えない子供など、さっさと喰われればいい。無害なら、どうでもいい。
 今はただそっと眠り、傷を癒すだけだ。

 ジャギィ達の耳障りな鳴き声で、ゴア・マガラの穏やかな眠りは断たれた。
 己が弱っていることを嗅ぎ付けてきたらしい。
 よろめかないように四肢を踏ん張り、ゴア・マガラは怒号を発した。
 ジャギィ達が細い身体をわななかせ、散り散りになっていくのを感じて、鼻を鳴らす。
 ゴア・マガラの憤慨は照りつける太陽をも震わせた。空気がゆるりと流れ始める。身体中が痛い。
「怖かったよぉ……」
 ゴア・マガラは、硬直した。
 子供はまだいたらしい。ジャギィ達は、これを目当てに寄ってきていたのかもしれない。
 だめだ。喰ってしまおう。
 ゆっくりと口を開けたとき、脇腹に弾力を感じた。

「ねえ、怪我してるの?」

 血のにおいでもしたのか、子供は恐る恐るとでもいうように、ゴア・マガラに触れてきた。
「わたし、おくすりたくさん持ってるよ。薬草をすり潰したやつ」
 ゴア・マガラは硬直したまま、目が見えないのを呪った。様子を窺っていると、脇腹の真一文字の深い傷に鋭い痛みが走り、身体がびくりと跳ねた。 
 嗅覚の鋭いゴア・マガラに、人間手製の「クスリ」というものは酷い臭いだったが、ハンターに投げつけられる「ネバネバとしたもの」に比べれば、マシだった。

「早く治るといいね」

 子供の声は、何故か、ゴア・マガラを落ち着かせた。
 そして、ゴア・マガラは閃いた。
 傷を癒すためにこの子供を利用しようと。
 食い物をとれるようになるまで傍らに置いておき、とれなかったら、その時は喰えばいい。
 そのためにはまず、子供の臭いを消さなくてはいけない。
 ゴア・マガラは子供の身体を前脚で抱え込み、頭部や胸部を、子供にすり付けた。子供はきゃあきゃあと身を捩り、ゴア・マガラの顔を撫でた。

 それから、奇妙な、奇妙な共生が始まった。共生といっても、雷狼竜と雷光虫のような、互いを必要とする理想的な関係——相利共生ではない。あくまで、利用するだけだ。

 子供は、雌だ。なんとなく、そんな気がする。
 好奇心から、人間の身体というものに触れてみた。頭部を覆う体毛が長く、手足はすべすべで、体毛も鱗もない。子供の身体は平たいのに、腹は弾力があった。鳥の囀りのような声で笑い、無邪気に擦り寄ってくる。本当に、変な生き物だと思った。
 子供の目は、完全に見えないわけではないようだが、どれくらい見えているのか、ゴア・マガラにはわからない。巣の中で、子供は手探りでゴア・マガラを捜す。尾で巻き込むように引き寄せてぴたりとくっついてやれば、顔を近付けて、首を傾げ、嬉しそうに頬を押し付けてくる。
 子供のおかげで、みるみるうちに傷が癒えて、餌も取れるようになった。
 子供の為にケルビを狩ってきてやったことがあるが、どうやら子供は肉は食えないらしく、仕方なく、果実や蜂蜜を与えた。

 あっという間に、厳しい寒さは訪れた。身を寄せ合い、暖を取る。
 湿った翼で子供を包み込み、体温を共有する。蓄えた食物を食べ、出来るだけ体力を使わないように過ごした。
 樹海が生命の息吹に満ち溢れた時期になり、突き刺すような日差しに肉が腐りやすい時期が過ぎ、この子供と出会った、実りある時期になった。
 子供は少し大きくなり、ゴア・マガラの傷もすっかり癒え、縄張りを荒らすモンスターとも闘えるようになった。

 或る日、蜂の巣を咥え寝床に戻ると子供はいなかった。
 足元に蜂の巣を落とし、身体を翻す。
 他のモンスターに襲われたのか?
 いや、血の匂いはしなかった。
 鼻を鳴らし、子供を呼んで、茂みから、
「おかえり!」
 聞き慣れた声がした。
 飛び掛かる勢いで、声のした方へ寄る。
「みて、ほら、卵」
 何処か得意げな子供の声にぐるぐると喉を鳴らして、子供の襟首を咥える。
 子供がとってきた卵は、小型の草食モンスターのものだった。
 一緒に食べた黄身は濃厚で、甘かった。

「兄様には会えないんだろうけど、あなたがいるなら、淋しくないよ」

 眠りにつく時、子供はいつも、ゴア・マガラに自分のことを話した。
 視覚に問題はあるが「色」ははっきりと分かるようで、あなたは夜と同んなじ色なんだねと、冷たいけど、あったかいと子供は言った。
「ずっと一緒にいられるといいね」
 その晩、子供は珍しく長く起きていた。
 昔、自分が母親のそばで眠った時、母親がしてくれたように、ゴア・マガラは、優しく鳴いて、子供をしっかりと抱き寄せた。

 不穏は、死の臭いと共に忍び寄ってきた。

 荒れくれ物の轟竜も、女王を慕う徹甲虫も、イタズラ好きの奇猿狐も、皆、死んでしまった。
 彼等の最期を——遠くから響く怒号と断末魔を、ゴア・マガラは、他のモンスターは、大地は、聞いていた。
 彼等の凄惨な屍には小型の肉食モンスターですら近寄らなかったようで、日が経つごとに、屍の臭いは強烈になっていった。
 ハンターは、すぐそこまで来ている。
 この因縁に決着をつけなくてはいけない。子供を護らなくてはいけない。
 水浴びをする子供の楽しそうな声と水音を聞きながら、ゴア・マガラは、喉を鳴らした。

 豊かな大地を子供と並んで歩く。
 木々のにおい。
 風のにおい。
 花のにおい。
 子供のにおい。
 ゴア・マガラは、生命力に満ちたこの地が好きだった。子供と、ずっとここにいたっていい。些かのキケンは、全て打ち払ってやろう——。

 ゴア・マガラは、ぴたりと足を止めた。
 日差しに濡れていた背中が痛む。
 体内で、別の生き物が暴れているよう。
 四肢が痙攣し、子供に異変を悟られないよう、ゴア・マガラは後退した。
退化した視覚器官が、熱い。
 そういえば、もう死んでしまった母から、我々は脱皮し、新しい身体に進化するのだと、遠い昔に聞かされていた。そうしたら、目が見えるようになると。忌むべき世界から解放され、古より存在する永遠の楽園に向け飛んで行くのだと、母は言っていた。
 脱皮——それがこの時なのだなと、ゴア・マガラは覚悟を決めた。

 背中を丸めると、背骨に沿って、表皮が破れた。前脚を踏ん張ると鱗が剥がれ落ちていき、新しい皮膚が空気に触れた。四肢の表皮は捲れ上がり、剥き出しの部分は火照っていく。額のあたりが酷く痛む。唸り声を上げ、垂らしていた頭を擡げると額から鼻面を覆う硬皮に亀裂が入り、硬皮は砕け、足元に落ちた。
 柔らかい表皮に切れ目が入ったように、閉ざされていた目が、開いた。
 目の前が一瞬真っ白になった後、徐々に世界が見えてきた。
 目の前にいたのは、若草の上にぺたりと座り込む少女だった。

 見える。お前が見えるぞ。

 歩み寄って、座り込む少女の頬を舐めてやる。
 日に焼けた顔、頭皮を覆う黒く長い体毛、身体に巻かれたざらついた布切れ。凹凸の少ない身体。
 双眸は黒く、丸々としている。視線は虚ろだが、少女はしっかりと此方を見ていた。
「なんだか、ぴかぴかしてるね」
 確かめるように顔を撫でてくる少女に答えるように、短く鳴いた。

 ゴア・マガラは、シャガルマガラとして、少女と生きることになった。

「天廻龍?」
 生返事をしながら蟲に餌をやっていたハンターは、漸く振り返った。受付嬢は握り締めたギルドからの報告書と、ハンターの訝しげに細められた双眸とを交互に見て、そうですそうですと頷いた。
「それを狩れば、この辺りのモンスターへの汚染もなくなるのかな?」
「はい! 目撃情報が増えてます! きっとハンターさんが前に逃したと言っていたゴア・マガラが、変異を遂げたのでしょう!」
「わかった。場所を教えて。今度こそ……終わらせてくる」
 ハンターは、光沢を帯びた蟲の背中を撫で、緩慢に椅子から立ち上がった。
 蟲はハンターに甘えるように、きいきい鳴いた後、腕にしがみ付いた。

 シャガルマガラの世界は、鮮やかなものになった。
 空の広さを、海の深さを、萌える木々の生命力を、風に揺れる花の美しさを知った。遠い遠い空の上で追いかけ合う太陽と月の偉大さ、連なる星の清澄な瞬き——全てが、新鮮だった。
 少女にそれらの「色」を教えてやりたくて、背中に乗せて、遠出したこともある。低く飛びながら、風の音を聞いた。
夜に海の上を飛べば、金に輝く己の身体が、仄暗い海面を照らし、魚が集まって来た。
「すごいね、あなたは、お月様と同んなじ色なんだね!」
 翼の付け根で、少女は笑った。

 この時間が、長く続けばいいと思った。

 有り触れた夜のことだった。
 とうとう、その時はやってきた。
 温い夜風が漲る殺気と激昂を運んできた。
 ハンターがきたのだ。
 目覚めたシャガルマガラは、穏やかな寝息を立てる少女を起こさないように、巣を出た。
 折り畳んでいた翼を広げた時、少女が藁の上で寝返りを打った。そのまま上昇することもできたが、一度身を翻し、月明かりに濡れる少女の頬を舐めた。
 すぐに戻る。

 シャガルマガラは少女の寝顔を見詰めて、鼻息を吐いた。

 夜の樹海を、シャガルマガラは歩いた。虫の声だけがする。一歩一歩、ゆっくりと土を踏みしめ、ハンターの臭いを辿った。
 少女と歩いてきた世界は、暗澹に包まれている。張り詰めた静寂は、ハンターを恐れている。細やかな幸福を穢す存在は、すぐそばまで来ている。
 途中で、シャガルマガラは足を止めた。

「見付けたぞ、天廻龍」
 月光の下で、忌々しいハンターの姿を、この目に見た。蟲が一匹と、二足歩行の猫が二匹。死を運ぶ存在が纏う防具は、大地を照らす月明かりと同じ色をしていたが、微塵の美しさもない。
 それは命を吸ってきた色だ。
 哀しみと怒りの混ざった色だ。
 死の色だ。
 ハンターを、殺さなくては。
 シャガルマガラは唸り声を上げ、翼を広げた。

 少女が目覚める前に、巣に帰るのだ。

 シャガルマガラは、狡猾だった。
 木々や岩の多い場所での戦闘は得意の筈だったが、空中を旋回するシャガルマガラに、それは通用しなかった。
 シャガルマガラは飛び立ち、体当たりをして、また上空へ身を翻す。
 なんとか背中にしがみ付いてナイフを突き立てて、抉り、転倒したところを攻撃した。
 尖角を折ってもシャガルマガラの小さな瞳からは、闘志は消えなかった。
 挑発するように鳴きながら、シャガルマガラは森から離れていった。
 苛立ちながらもオトモ達とそれを追い、樹海の入口の方へ、身を隠す場のない、足場が悪い岩場に誘いだされてしまった。
 猛狂うシャガルマガラにオトモ二匹は力尽き、手塩を掛け育てた蟲は、哀れにも噛み砕かれ、一対一の戦いとなった。
 回復薬も、強走薬も丸薬もなくなった。
互いに傷は深く、体力の消耗も激しい。
 夜明けが近いのか、空はうっすらと白んできた。
 本当にこいつは、以前相手にしたゴア・マガラだろうか。疾く、しなやかで、勇ましい。そして、まるで何かに取り憑かれたかのように、立ち向かってくる。
「ちくしょう……もう、終わりにしてやる……!」
 突進してきたシャガルマガラの砕けた角の間に棍棒を振り下ろすのと同時、鋭利な鉤爪に脇腹を抉られ、身体が吹っ飛んだ。
 岩に背中を叩きつけられ、意識が途絶えた。

 ハンターが鮮血を撒き散らし、ぱっくりと口を広げた奈落に落ちていったのを見届けて、シャガルマガラは咆哮を上げた。
 角がへし折れ、両翼の薄膜は破れ、爪は剥がれている。
 強烈な一撃を食らった眉間が鈍く痛んだが、頭の中は、少女のことでいっぱいだった。
 朝が来てしまう。
 少女が目覚めてしまう。
 
 呼吸をすると、腹が痛んだ。
 見れば、足の付け根に近い部分——蟲に何度も噛まれた部分——が裂け、腸(はらわた)が飛び出していた。身体を折り曲げ、傷口に舌をやり、血塗れの腸を押し込んだ。
 真っ赤な跡を灰色の岩場に残して、朝日に向けて、翼を広げ、不安定に飛び立った。
 巣に着く前に、翼と肩口を繋いでいた筋が切れたのか、バランスを崩し、生い茂る木々の葉にぶつかりながら、地面に叩きつけられた。起き上がってよろめきながら歩くと、押し込んだ腸がまた飛び出ていた。
 血が止まらない。
 巣はもう近い。
 大丈夫。きっと、少女がまたあの臭くてたまらない「クスリ」を塗ってくれれば、すぐに飛べるようになる。
 身体を引きずるようにして、森を抜けた。
 感覚のなくなった翼を揺らし、岩場に舞い降りる。
 空は、夕焼けのような色をしている。
 少女は、起きているだろうか。

「どこにいってたの!」
 少女は、起きていた。
 そばまで行くと、顔に抱きついて来た。少女のにおいに包まれ、激高は去った。
「怪我してるの?」
 少女は顔を歪め、荒っぽく削れた角の先端を撫でたり、首をぺたぺたと触ってきた。
「どうして……」
 シャガルマガラは少女の小さな体躯に顔を押し付け、前脚を折った。身体を横たえると、土埃が舞った。
 下半身が冷たい。
 後脚が、ドス黒い血溜まりに浸る。
「やだ……やだよぉ……」
 少女の目から溢れ、鱗に滴る水が何故こうも温かいのか、シャガルマガラにはわからない。
 死なないでと、少女は首にしがみ付いてきた。
 死ぬものかと、シャガルマガラは鳴いた。
 口から出たのは弱々しく掠れていて、それこそ唸り声に似たものだったが、それでも、少女が目から水を流すのをやめるのなら、それでよかった。
「一緒にいたいよ……置いていかないでよぉ……」
 お前を何処に置いていくというのだ。
押し寄せる感情は、味わったことのない、不思議なものだった。
 少女と、離れたくはない。
 前腕を伸ばして、シャガルマガラは、いつものように少女の身体を引き寄せる。
 少女の小さな小さな指が、シャガルマガラの口元を撫でる。
 密着した体温は心地良く、触れた部分が熱を帯びていった。
 このまま、灼熱を思わせる温もりの中で、少しだけ、眠ってもいいかもしれない。
 そして、目が覚めたら、彼女と、また何処か遠くへ飛んでいけたらいい。
 金色の太陽の光を浴び、銀色の風の音に耳を傾け、大海原の蒼に飛び込み、若草の緑に溶けたい――。
 
 ああ。
 
 吐き出した息が吸えなくなって、頭がぼんやりとしてきて、シャガルマガラは、永遠に続く静かな夜に身を委ねた。

 還る明日は、彼女のいる此処でいい。

「……発見されたシャガルマガラの死骸のそばには、人間の女の子がいたんです」
 受付嬢は眼鏡の奥の瞳を細め、目の前のハンターに報告を続けた。
「あいつ、死んでなかったのか。少女を捕食しようとしたのかな」
 カウンターに頬杖を突いていたハンターが、丸めていた背中をゆっくりと伸ばした。
 片腕は、肘から先が無くなっていた。ハンターは三日前に、オトモ達に担がれ、谷底から生還を遂げた。操蟲棍を自在に操る右腕は、岩の下敷きになって、骨が粉々に砕け、筋も肉も損傷が激しく——切断するしかなかったのだ。
「詳細を述べますと……女の子を庇うようにして、シャガルマガラは息絶え……衰弱していた女の子も、シャガルマガラに寄り添うようにしていたそうです」
 モンスターに対し、熱烈な想いを馳せている筈の受付嬢は、苦しそうに続けた。
 ハンターは、ふうんと、まるで興味がないとでも言うように、受付嬢の手元の報告書を見下ろした。
「保護された女の子は目がよく見えていません。それでも……それでも、彼女はシャガルマガラをはっきりと見ていました。離れたくないと——」
「もういいよ、止めて。私を責めるような目で見ないで」
 ハンターは首を振り、カウンターから離れた。

「ねえ……モンスターと人間は、気持ちが通じ合うと思う?」

 受付嬢はハンターから視線を逸らし、目を閉じて、見たことのない少女の姿を想像し——小さく頷いた。
 それをみて、ハンターは何も言わずに背中を向けた。
 存在しない肘から下が疼いた。
 幻肢痛だ。
 これから先、この腕が痛むたび、きっと、あのシャガルマガラを思い出す。
 正義の在り方とはなんだろうと考えながら、シャガルマガラの双眸のような空を見上げた。

 金色に光る鳥が一羽羽ばたいて、東の海へ向かって帆翔するのを見た。

(常世に廻れや、命と心)