穏やかな潮騒の調べだけが耳朶を打つ。月明かりに照らし出されたたゆたう波間は、光の加減で艶やかな黒曜石のように見えた。星がひとつ夜空を滑り落ちて、それを追うように視線を下げると、浜辺にしゃがみ込む父の姿。
「父さん。いつまでこうしているつもりだい?」
コートのポケットに手を突っ込んだまま先程と同じ問い掛けをすると、父は頭を擡げて、私を見上げて困ったように言う。
「この子達が帰りたいと言うまで」
「それでは朝になってしまうよ」
「もう少しだけだ。いいだろう?」
溜息を噛み殺して、首を縦にゆっくり振る。 駄々をこねる子供のような父の手元には、元実験動物だった三匹の亀……
引いては押し寄せる波に小さな身体を流されそうになりながらも、じゃれあい、砂を掘り、鳴き、思い思いに遊んでいる。
父が時々、夜にこうして亀達を散歩がてら浜辺に連れて行くのは知っていた。ふと興味が湧いて、気まぐれで「一緒に行くよ」とは言ったものの、散歩に付き合ったことを些か後悔していた。退屈すぎる。
先に帰るよと言おうとした時、そういえば、と父が顔を上げた。「お前がまだ小さかった時、一度だけ海に連れていったんだ」
父が発した言葉に、脳髄を満たしていた眠気と気怠さが雲散した。
「覚えてないか?」
父の眸には、微かに期待が浮いていた。
「そんなこと、覚えていないよ」
「……そうかあ」
期待は一瞬にして影を潜めた。
「懐かしいなぁ。思い出すよ。母さんは実家の用事で急に行けなくなってしまったんだがね。浮き輪を持って手を繋いで海まで歩いたんだ。あの時のお前は、これでお父さんと泳げるねって、嬉しそうだったなぁ」
思い出をぽつりぽつりと零す父の横顔から目が離せなかった。
夜気に混じって紡がれる、自分の知らない家族の記憶。
父の胸に残っていてくれた私。
遠い日の海の形見。
「大はしゃぎだった。二人して真っ赤に日焼けするまで泳いだよ」
父と目が合って、口元が緩んだ。
そうか、幼い私は楽しそうだったのか。
亀が鳴いて、重なっていた視線が外れる。
「なんだい、もういいのか? そうか、よしよし、おうちに帰ろうな」
猫撫で声でそう言うと、父は濡れた亀達を抱いて立ち上がった。
二人で海に背を向けると、緩い夜風が頬を撫ぜた。
父の後ろに続いた時、デジャヴを感じて、そのまま父の背中を凝視する。
もしかして、父の言っていた海というのは、この場所ではないか——?
「どうした?」
「……いや、なんでもないよ」
「フゥン」
首を巡らせた父は、気の抜けた声を一つ返すと、前を向いてまた歩き出した。
途切れていた足跡が続く。
「なぁ、父さん」
ふわりと漂って父の隣に並んで、乾いていた上唇を舐めて口を開いた。
「もしかしてその時、私を背負って帰らなかったか?」
「えっ」立ち止まるのは父の方だった。琥珀色の眸が笑う形になる。「そうだよ」嬉しそうな声音に、釣られて頬が崩れた。「思い出したのか?」
「少しだけ。疲れてそのまま背中で寝てしまった気がする。照れくさいな」
「その通りだ。またおぶってやろうか?」
「よしてくれ、そんな年じゃないよ」
「お前は軽いから私でもおんぶできるぞ!」
からからと笑う父を見上げて、片腕に抱かれた亀達は揃って目を丸くさせていた。
「さぁ、息子よ。帰ろう。我が家へ」
差し出された手に触れると、肉の厚い丸っこい掌にしっかりと握られた。少し恥ずかしいような気もしたが、構わない。これでいい。私達はこうやって歩み寄り、失われた時間を取り戻すために生きていくのだろう。
夜空で星が瞬いて、白い浜辺に不揃いな影がふたつ、寄り添うように伸びていた。