魏軍樊城組と猫

 朝から弱い雨が降り続く、或る夏の夜のことだった。
 鍛錬を終えて幕舎に戻る途中、虫の音に混じって獣の唸り声が聞こえた。
 近くに狼でもいるのかと思い、耳をすまして辺りを見回す。一陣の風が吹き抜けて、今度ははっきりと、幕舎の裏側から唸り声が聞こえた。
 低い声を辿ると、幕舎の裏側の茂みに、四肢を踏ん張ってなにかに食らいつく一匹の犬がいた。犬はこちらの気配に気付くと頭を擡げ、牙を剥き出しにし、毛を逆立てて痩せ細った身体を膨らませた。
 近頃、野犬に襲われる兵士が増えているのを思い出した。人を恐れぬ飢えた獣は、駆除したが良い。犬を睥睨し、手にした鍛練用の狼牙棒の柄を握り直して、ゆっくりと距離を縮める。
 途端、本能的に危険を察知したのか、犬は尾を腹にぴたりと付けて、甲高い鳴き声を上げて身を翻し、暗い森へと駆けていった。
 犬の鳴き声が遠くなって、鼻息を吐いて足元を見る。
 犬が咬みついていたのは、猫だった。
「酷い傷だ」
 雨に濡れた(くさむら)に横たわる猫の平たい腹が、弱々しく規則的に上下している。薄闇にぼんやりと浮かぶ真っ白な身体は所々血で赤く染まっていた。もう助からないかもしれないとも思ったが、夜更けにこうして出会ったのだ。なにかの巡り合わせに違いない。
「……死んではならん」
 しゃがみこみ、猫の身体の下に手を差し込んでそっと抱き上げた。猫は投げ出した四肢で湿った空気を掻き、一度力なく鳴いた。片手に収まるほどの小さな猫だったが、双眸には力強い生命力がちらついていた。

「それで、どうして良いかわからずに、私の元に死にかけの猫を連れてきたというわけか」
 于禁の眉間の皺がぐっと深くなり、詰るような視線が飛んできて、龐徳は目を伏せる。
 猫を抱き抱え、縋るように于禁の幕舎にきたものの、馬以外ろくに触れたことのない武人が二人に増えただけで、揃って顰めっ面で衰弱した猫を見下ろすだけだった。
「私は猫の手当てなどしたことがないぞ」
「すまぬ」
 猫の濡れた身体を手拭いで拭きながら、龐徳は呟いて項垂れた。
 于禁は組んでいた腕を解くと、溜息を噛み殺して顔を逸らした。龐徳がこっ酷く叱られた幼子と違うのは、泣いていないだけである。
 猫を一瞥すると、猫と目が合った。双眸が潤んでいるように見えるのは、隅の灯りが隙間風に煽られて揺れたからに違いない……。
「幸い傷はそんなに深くない。そのまま止血をしてやれば良いのではないか」
「……すまぬ」
「龐徳殿、謝るな。謝るくらいなら自分の幕舎に」
 于禁の言葉は最後まで続くことはなかった。猫が于禁の指を舐めたのだ。猫のざらついた舌は怒気を絡め取ったらしい。龐徳が視線を上げると、于禁の眉間に刻まれていた皺は消えていた。
「于禁殿」
「なんだ」
「治るまで面倒をみようと思うのだが、協力していただけぬか?」 猫を間に挟んで見詰め合うと、于禁は指先で猫の薄桃色の鼻を押し「治るまでだからな」と言って、薄い唇を引き結んだ。

 毎日足を運ぶ龐徳のねんごろな看護のおかげか、猫はみるみるうちに回復した。まだ後ろ足を引き摺ってはいるものの、走ったり、高い場所から飛び降りたりしても平気らしい。食欲もあり、痩せていた身体は少し重たくなって、毛艶も良くなった。
 健気なことに、猫は龐徳がやってくる頃になると、幕舎の入口で座って待っているようになっていた(幕舎を出た于禁が戻ってきた時も同じだ)。両耳をぴんと立てたり寝かせたりして、猫は足音の違いや甲冑の擦れる音でも聞き分けているのか、龐徳と于禁にだけ反応した。
 今も、猫は幕舎に戻った于禁の足元まで寄ってきて、于禁を見上げて甘ったるい声で鳴いている。
「こら、籠の中にいろと言っただろう」
 すると于禁は決まってそう言い、しゃがんで足元の猫を抱き上げ、説教をする。どんなに辛辣なことを言おうと、人語を解さぬ猫には無駄であるが、口を開けば小言が出るのであった。
「大人しくしているのだぞ」
 一時的に寝床となった籠に猫を入れた。弱っていた頃にここに入れてから、すっかり気に入ったらしい。猫は一日の半分以上は、ここで丸くなって眠っている。
 于禁の手を離れると、猫は毛づくろいを始めた。
「まったく、気ままなやつだな」
 舌をちっちと鳴らして猫の耳元を指先で掻くと、猫はうっとりと目を細めた。撫でるのをやめると、猫は催促をするように、于禁の指を前足で挟み込み、甘噛みした。
 指に絡む湿った舌と、強弱を付けて食い込む丸い牙にむず痒さを感じた時、
「于禁殿はおられるか」
 入口から声がした。聞いたことのない声に驚いたのか、それとも好奇心からなのか、猫は于禁の手を離して伏せ、鼻をひくつかせて声のした方を凝視している。長い尾だけが左右に動いていた。
 振り返ると、二人分の影が入口から伸びている。徐晃と曹仁だった。
「どうした?」
「于禁殿が猫を飼っていると聞いたのだ」
 徐晃は白い歯を見せて言った。曹仁は相変わらずの仏頂面だったが、幕舎の中を探るように、視線は左へ右へと忙しなく動いていた。「違う、私が飼っているのではない。龐徳殿が拾ってきたのだ。猫の怪我が治るまで、私の幕舎に置く約束をしただけで……」
「おお、猫がいたぞ!」
「魚を持ってきたのだ」
「……話を聞かんか」
 于禁は大きく溜息を吐きたいのを堪え、半眼で二人を見据えた。それから、浮かれる訪問者を中に入れるべく、二、三歩後ろに下がった。
 猫は、すぐに二人に懐いた。
 小魚を与えながら、懐っこい猫だな、心が清められますな、などと、体躯逞しい武人が二人、猫を囲って笑みを浮かべているのは滑稽に思えた。
 そこにいつものように龐徳がやってきて、広いとは言えぬ幕舎は大柄な男達でいっぱいになり、魚の生臭さを気にしないほどに、和やかな雰囲気になった。
「そういえば、この猫の名は?」
「名? 猫は猫だろう」
 三人分の視線が于禁に集中した。
 動揺と非難の入り混じった視線を浴び、于禁は(しわぶき)をひとつして「名を付けたら、情が湧くだろう」精悍な顔立ちを曇らせる徐晃に視線を溜め、片目を眇めた。
「しかし、名無しのままというのは不便なのでは?」
 曹仁が猫を膝に載せたまま、真面目な表情で言う。
 その隣で、ううむと唸っていた龐徳が「某は」口を開いた。
 皆の視線が龐徳に移る。
「良い名を付けたいと思っている」
「ならば拙者も考えるでござる!」
「自分も是非協力したい」
 熱い視線を交す三人を見て、于禁は額に手をやり、やれやれと首を振るのだった。
 徐晃と曹仁を見送った時には、日も傾いて、頬を撫ぜる風には秋の気配が感じられた。
 いつかの雨の降る晩のように、于禁は名のない猫を挟んで龐徳と向かい合っていた。
「元気になったようで、安心した」
 じゃれつく猫の額を撫でる龐徳の表情は実に穏やかなものだった。そこには、戦場で眦を決し、旗鼓堂々、勇猛果敢に攻め立てる武人の気配は微塵もない。
 愛玩動物一匹で、こんなにも人は変わるのかと思ったが——于禁も、自身の変化を実感していた。甘えてくる猫を撫でていると、強張った肩から力が抜け、自然と口元が緩んだ。不思議なことに、なにも考えずにいられた。気が緩むと言ってもいいかも知れないが、少しだけ胸の閊えが取れる。
 掌を通して伝わる温もりと鼓動は生き生きとしていて、しなやかで、逞しかった。猫の小さな身体は、生命力で溢れていた。白く柔らかい身体をしっかりと抱けば、煌びやかな命と無垢な魂を感じた。
 いつからか、猫が健やかに成長するように強く願うようになっていた。それはきっと、龐徳や、徐晃、曹仁も同じだろう。
「龐徳殿」
「なにか」
「名を付けるのならば、最後まで責任を持って飼うのだぞ」
 龐徳は、言葉の意を解せぬと言わんばかりに瞬きを繰り返し、于禁と猫を交互に見やった。
「于禁殿……それは、つまり……良いのか?」
「ああ。それと、猫の名だが……私も考えよう。なぁ、猫、お前も良い名が欲しいだろう?」
 喉を鳴らしていた猫は優雅に尾を波打たせて于禁を見上げ、返事をするように鳴いた。
 翡翠と同じ色をした双眸には、頬を緩ませる武人が二人映っていた。