さよならごっこ

 ふっと途絶えていた意識が浮上した。
 いつの間にか膝を抱えて眠ってしまったらしい。身体が強張っていた。指の背で目を擦り、顔を上げる。
 寂寞とした海辺は夕暮れ時を迎えていた。
 引いては押し寄せる規則的な波音は穏やかだった。頬を撫でていく潮風が濃い海のにおいを運んできた。水平線に浮かぶ太陽の眩しさに目を細めて、髪を一房耳に掛け、立ち上がって尻をはたいた。
 辺りを見回すが、人気はない。何故海にいるのか思い出せなかったが、心は凪いで、胸には安心感があった。
 俯いて、なんとなく、あてもなく歩き出した。白い砂浜は歩きにくい。ブーツが深く沈む。カニが一匹足元を横切っていった。
 潮騒の調べを背景に、映画のワンシーンのような海辺をしばらく歩き続けると、なにかの気配を感じた。
 足を止めて顔を上げると、少し距離を置いて、デイビットが立っていた。
 途端に、これが夢であることに気付く。デイビットに会えるはずがない。彼は、テスカトリポカのミクトランパにいるのだから。
 風が吹いて、デイビットの前髪を乱していった。
「久し振りだな」
 彼の視線はまっすぐにわたしに向けられている。表情が柔らかく見えるのは気のせいだろうか。
「これはキミの夢かな。それともわたしの夢かな」
 夕陽に照らされて浮かび上がったふたつの影は不揃いだ。デイビットの方が身長が高いのに、彼の影の方が小さく見えるのは何故だろう。
「オレの夢かもしれない。君に会いたいと強く願った」
「わたしも、キミに会いたいと思ってたよ」
「それなら、オレたちは同じ夢を見ていることになる」
「でも、どうして海なんだろうね」
「それはオレにもわからない」
 白波が会話を攫っていく。沈黙すら心地よく感じられた。
「ねえ」
 デイビットの紫色の双眸を見据える。
「どうしてわたしに会いたいと思ったの?」
 首を傾げると、彼はゆっくりと瞬きをした。
「話がしたかった。君と友人になれたらとも思った。いつまでも共にありたいとも願った。つまるところ、オレは君に執着している。他人と信頼関係を築けないのに、おかしな話だろう」
「そんなことないよ。とても嬉しい。実はね、わたしもあれからずっとデイビットのことを考えてたんだ。誰にも言えなかったけどね」
 曖昧に微笑んで、足元に視線を落とす。純粋な親しみを向けられたのは嬉しかったが、叶うことのない彼の願いは落日に似ている。 わたしたちは違う世界にいる。共に歩むことはできないのだ。
 胸にあった安心感が萎んで、代わりに哀しみが膨らんだ。項垂れて、所在なく垂れていた手を強く握る。酷く苦しい。
「君はオレにとって、唯一の人だ」
 デイビットの静かな声は波音を掻き消した。顔を上げると、視線が交わった。わたしよりも年上なのに、彼は泣くのを堪える子供に見えた。
「どうかその信念を曲げないでくれ。決して立ち止まるな。正しい方へ進め。君の旅路が善きものであることを祈っている」
 それから、とデイビットは続けた。
「すべてが終わったらでいい。また君に会いたい」
「うん」目に涙が浮かんで、目の前が水っぽく歪む「わたしも、デイビットに会いたい」
 彼に会えるとしたら、楽園にあるあの焚き火の前だが、わたしが楽園に行けるとも限らない。それに、その時は互いに肉体を持たない。
 それでも――もしも会えたなら、火を囲って話がしたい。彼のそばにいたい。
「もうすぐ日が沈む。夜が来てしまう」
 デイビットは夕陽に顔を向けた。それに倣って海を見やる。夜のはじまりと昼のおわりの境界線で、いよいよ太陽が水平線に沈もうとしていた。二度と見られない景色は残酷なくらい美しくて、眩しかった。わたしはきっと、この空を忘れないだろう。

「さよならだ、藤丸立香」

 不意に耳朶を打った漣よりも小さな声はわたしの鼓動を速めた。顔を正面に戻す。デイビットの端正な顔が半分翳っている。
 今この瞬間、時が止まってくれたらどんなにいいだろう。目が覚めたらこの夢はおわる。その前に今度はきちんと別れを告げなくてはならない。そんなことはわかっている。わかっているが、今はただ、真の闇が訪れる瞬間まで彼を見詰めていたかった。
「さようなら、デイビット。……ううん、またいつか会えるんだから、またねの方がいいよね」
「そうだな。そちらの方がいい」
「……またね、デイビット」
「君に会えてよかった」
 水平線の彼方でついに太陽が燃え尽きた。夜の帳に覆われた海辺は光が欠けて一気に暗くなった。
 デイビットが微笑んだ気がしたが、よく見えない。波の音が遠ざかっていく。
 行かないで、デイビット――。

「…………!」
 吸い込んだ空気で胸が膨らむ感覚で目が覚めた。視界に飛び込んできたのは自室の真っ白な天井だった。
 見開いた目は潤んでいた。涙が伝い落ちたのだろう、目尻が湿っていた。
「ぁ……」
 掠れた声が漏れた。瞬きを繰り返してゆっくりと身体を起こし、室内を見る。見慣れた部屋はいつも通りだ。なんら変わらない。いつもの朝だ。
 吐息をついて目を伏せる。瞼の裏に残る夢の名残に縋りたかった。
 デイビットに会えて嬉しかった。最後に力強く抱き締めればよかった。
「キミも、わたしにとって唯一の人なんだ」
 ずっとデイビットのことを考えていたのは本当だった。デイビットのことが好きだと気付くのには、あまりにも遅すぎたのだ。この先、彼以外の人を好きになることはないだろう。叶わなかった恋は、喪失感となって心に爪痕を残した。
 まるで、輝きを放ち落ちていく、流星のような恋だった。
 キミが好きだとちゃんと伝えればよかった――。
「デイビット……」
 膝を抱えて、声を押し殺して泣いた。
 聞こえるはずのない波音が聞こえる。