ニヒル・アドミラリ

 常に、何事にも備えができていた。
 なにが起きようとも驚かないでいた。 
 それなのに、藤丸立香を前にするとすべてが打ち崩される。彼女には驚かされてばかりだ。
 異聞帯での軌跡はもちろん、テスカトリポカのミクトランパでの命懸けの戦いでもそうだった。彼女はオレの予想を超えていく。
 今だってそうだ。
 先程までシミュレーターによる戦闘訓練で激しい戦いを繰り広げていたというのに、彼女はけろりとして、オレの腕をぐいぐい引いて「今日の晩御飯はデイビットが食べたいって言ってたお寿司だよ」目を爛々と輝かせて夕食の話をしている。
 こんな普通の女の子が、苛烈な戦いで非の打ち所がない采配をとっていたようにはとても思えない。
「カルフォルニアロールとは違うのか」
「それは見てからのお楽しみ」
 彼女は悪戯っぽく笑った。
「わたしはマグロが好きなんだ」
「……マグロ……」
 丸々としたマグロを思い浮かべるが、アレがどう寿司になるのかわからなかった。
 彼女は「美味しいんだよ」と結んで歩を緩めた。
 歩幅が狭まって、角を曲がったところで彼女は立ち止まった。それに倣って足を止める。頭の中でマグロが消える。
「わたしね」
 彼女は俯いて、一拍置いてゆっくりと顔を上げた。重なった視線から熱が伝わってくる。
「デイビットと一緒にお寿司を食べられるのが嬉しいの」
 腕に回っていたたおやかな手が力む。長い睫毛に囲われたアンバーの眸が切なげに瞬いた。
「これからは、一緒にいられたら、もっと嬉しい」
 親しみのこもった言葉の端には切望があった。
 腕にあった彼女の手を取り、指先を包み込む。ひとつを救うために数多の世界を壊すしかなかった手は温かく、柔らかく、愛おしかった。
「オレも――」
 言葉が衝動的に込み上げて――湧き上がった感情は胸の真ん中を熱くさせた。この感情は星の瞬きのような刹那的なものではない。他者に対するここまでの親愛を、オレは抱いたことはない――浅く息を吸う。
「オレも、これからは君と共にありたい」
 うららかな春の日差しにも似た感情を言葉にすると、彼女の頬がほんのりと色付いた。
「これからは、一緒にいよう」
 指先が絡まって、彼女は朗らかに微笑んだ。
 体温を移すようにしっかりと交わった指を握る。甘い静寂がふたりの間に降り注いだ時、彼女の腹から空腹を告げる可愛らしい音がした。
「お腹空いちゃった。お寿司、食べに行こっ」
「ああ、行こう」
 照れくさそうに笑った彼女につられて口の端が緩んだ。 
 手を繋いで同じ歩幅で並んで歩き出す。頭の中に未知なるマグロが戻ってきた。
 この先もきっと、寿司のマグロのように、オレが知っているようで知らないことはたくさんあるだろう。
 それを、これからは彼女と経験していくのだ。
 構えなくていい。備えなくていい。
 オレの隣には彼女がいる。それでいい。それだけでいい。