立香と随伴したサーヴァントたちの活躍により、悲劇の人であったロクサーヌは救われ、聖杯に託した願いそのものに懊悩していた男もまた思い残すことなく去り、人類史を歪ませる特異点の幕引きは、美しいものとなった。
「お芝居、頑張ったんですよ」
ロクサーヌを演じた立香は、はにかみながらも誇らしげに言って、ごろりと寝返りを打ってプトレマイオスの方を向いた。
「実に惜しい。吾もその演劇をこの目で見たかった」
肘枕を突いたプトレマイオスは、顎髭を撫でた。
「とはいっても、代役ですよ、わたし」
「大した問題ではないさ。恋をしている乙女というのは、なによりも輝かしく美しいものだ。ああ……見たい。想い人に焦がれる乙女を演じるおまえが見たい」
立香は頬をほんのり染め、映像が残っていることは内緒にしておこうと思いながら誤魔化すように笑った。アレを彼に観られるのは、あまりにも恥ずかしい。
「これは内緒の話ですけど、恋する乙女の気持ちを理解するために、好きな人のことを想ってお芝居の練習をしたんですよ」
「役作りは役者にとって大切なことだ。それで、シラノとクリスチャン、どちらを想った? 教えてくれ」
「その、実は、どっちでもなくて……」
彼女の声はどんどん小さくなっていった。
「あなたのことを、考えました」
今度は、プトレマイオスが耳を染める番だった。
「吾を、想ってくれたか」
プトレマイオスはふいと視線を逸らして、立香よりも小さな声で言った。
「だって、プトレマイオスのこと大好きだもん」
「おまえと蜜月である吾としては、喜ばしいことだ」
「あ、ずるい、目を逸らさないでください。ちゃんとわたしの目を見て」
プトレマイオスの頬を左右から掌で挟み込み、立香は唇を尖らせて抗議したが、ファラオは一切動じずに涼しい顔をして、立香の肩越しに本棚を見詰めていた。
「もう……」
立香はふくれっ面をしたが、すぐにころりと表情を変えた。彼の不敵なところも、茶目っ気のあるところも、好きだからだ。
「あなたは、わたしのこと、好き?」
逸らされていた金色の眸が揺れ、一瞬で熱視線が立香に向いた。
「当然。愛している」
「そうやってストレートに言われると照れちゃうよ」
「なんだ、おまえの目を見て言った途端にこれか」
「だって、恥ずかしい……うう……」
「こら、逃げるな」
「わあ」
プトレマイオスは、寝返りを打って距離を取って背を向けようとした立香を捕まえて抱き寄せた。可愛らしい笑い声がシーツに転がる。
ベッドで身を寄せ合い、ランプの仄燈に照らされた夜の片隅で共寝をするのは久し振りだった。ブランケットにこもる、寝衣越しでも伝わってくる互いの体温は、心地よい眠気を連れてくる。
「前から思ってたけど、プトレマイオスの髭って、柔らかくて、いいにおいがします」
立香はプトレマイオスの厳しい顔を見詰め、掌で包み込むようにして白髯に触れた。
「やっぱり、お手入れしてるの?」
「オリーブやハーブから抽出したオイルをつける。手入れをしないと目も当てられなくなるからな」
「ハーブの香りかあ。すごくいいにおい」
顔同士の距離が詰まった。立香は髭に埋もれた薄い唇を探り当て、触れるだけのキスをして、顎髭に鼻先を埋めた。
無邪気な戯れに、プトレマイオスは眸をゆっくりと瞬かせ、彼女の頬に手を添えて、お返しのキスをした。口唇の真ん中を擦り合わせ、つつき合い、舌先でふっくらとした下唇をなぞる。
「……ん」
漏れた立香の甘い吐息を取りこぼさないように呑み込んだ。口腔に滑り込ませた舌でくねる塊を掬い取って絡ませる。唾液が溢れないように彼女に飲ませ、上顎を舌先でくすぐった。動きの少ない、しかし、親愛と熱情のこもったキスは、互いの胸を熱くさせた。離れると、立香の双眸は潤んでいた。
「髭……くすぐったい……でも、いいにおい……」
立香は体温の混じった熱い吐息を吐き出した。ほっそりとした腕がプトレマイオスの分厚い肩に載った。ふたりはそのまま抱き合った。
「好き」
不意に、巨躯に抱き着いたまま立香は言った。
「この香りがそんなに気に入ったか」
「ううん、オイルのにおいも髭も好きだけど、今のは、あなたに言ったんです」
厚い胸板に乳房を押し付け、立香ははにかんだ。
「プトレマイオスが好き。大好き」
ハーブの香りがシーツの上で盪くした親愛の芳香に混ざる。立ち上る愛の香りを吸い込んで、温かな言葉に眦を下げ、老王は乙女を優しく抱き締めた。
穏やかな夜が幕を上げる。舞台の上でスポットライトを浴びて輝いているのは、ふたりの間に在る、唯一無二のものだった。