愛を食む

 夕食時の食堂は食欲をそそるにおいが漂っていた。

 立香は、受け取ったばかりのトレイを手に――今夜のメニューは、マカロニグラタン、野菜のマリネとチキンソテー、レンズ豆のポタージュだ――注文カウンターの前で立ち止まったまま、サーヴァントや職員たちで混み合う食堂内に視線を滑らせていた。

 席が空いていないわけではない。立香はプトレマイオスを探していた。彼が今ここにいるかはわからないが、いるのなら、一緒に食べたかった。

 視線は、奥にあるテーブルの真ん中に吸い寄せられた。目当ての大きな背中を捉えた時、立香はふっと笑った。大柄だからか、はたまたファラオとしての威厳が溢れているからなのか、人混みの中で背を向けて座っていても彼は目立っていた。

 一定の間隔で並ぶ白いテーブルの間を通り抜け、立香はまっすぐにプトレマイオスの向かいの空席に向かった。

「ここ、いいですか?」

 彼はちょうど食事をはじめるところだったらしい。カトラリーはトレイにあった。

「ああ、一緒に食べるとしよう」

 眦を下げた彼に微笑みを返し、立香は席に着いた。

 プトレマイオスの皿には、パルメザンチーズとオリーブオイルがかかった白身魚と、色とりどりの野菜のグリルが載っていた。他にも、小ぶりなブールと、立香と同じレンズ豆のポタージュも並んでいる。それと、食後のデザートだろう。大きく艶やかなイチジクがひとつあった。

「プトレマイオスの今夜のメニューは魚なんですね」

「生前よく食べていた魚だ。ふとどうしても食べたくなってな。レシピがあれば作れるというので、吾の図書館にあるレシピ本を渡して作らせた」

「レシピ本まであるんだ」

「吾の時代よりも少しあとの世代の料理人が残したとっておきのレシピ本だ。さて、どこまで再現できているか」プトレマイオスはナイフとフォークを手にした。銀色の切っ先が天井の燈を反射させて一刹那光った。「食べてみよう」

「わたしも、いただきまーす」

立香は手を合わせて、スプーンを取り、グラタンを掬った。湯気が立ち上り、チーズの香りが鼻先を掠める。火傷をしないようにふうふうと息を吹きかけて冷ましている間に、プトレマイオスは一口分に切り分けた魚の身を、蓄えた髭に埋もれた口元に運んでいた。

「美味い。まさに吾が好んだあの味だ。ここまで再現できるとは、見事なものだ」

「きれいな白身……タラですか?」

「アカタチウオだ」

「アカタチウオ」立香は復唱した。聞いたことのない魚だったが、なんとなく、細長い魚を想像した。

「食べるか?」

「いいんですか?」

プトレマイオスは皿を立香の手元に移動させた。

「いいにおい」

 ナイフとフォークを握り、立香は未知なるアカタチウオの身の端っこを切り、オリーブオイルでてらてらと照った薄い身を頬張った。身は淡白かと思ったが、魚の旨みが凝縮され、チーズの濃い塩気とよく合った。少し苦味を感じるのはオリーブオイルの風味だろうか。素材の味を活かしたシンプルな味付けだ。

「身がぷりぷりしていて美味しいね。チーズとオリーブオイルと合う」

「そうだろう。もっと食べるといい」

「ううん、プトレマイオスの分がなくなっちゃうから大丈夫です。ありがとう」

 彼の前に皿を戻して「わたしのマカロニグラタンも食べませんか?」グラタンを勧める。

「マカロニグラタンか……食べたことがない。一口もらおう」

「食べて食べて」

こんがりと焼き目のついたグラタンをプトレマイオスの前に置きたかったが、耐熱皿はまだ熱くて触れない。しかし、彼のトレイにはスプーンがある。グラタンまで手を伸ばしてもらう必要があるが、それで食べてもらえばいい。

「立香」プトレマイオスは身じろぎした。「食べさせてくれないか」

 囁くような声量だったが、賑々しい食堂の中でも彼の声ははっきりと聞き取れた。

「いいですよ。あーんして」

立香はグラタンをスプーンに半分ほど載せて、零さないようにプトレマイオスの前へ運んだ。

「熱いから気を付けてくださいね」

 プトレマイオスは少しだけ背中を丸めてスプーンへ顔を近付け、熱々のグラタンを平然と食べた。蓄えられた顎髭が咀嚼に合わせて小さく動く。グラタンを味わう彼を見据えて、立香は首を傾げた。

「……どうですか?」

「なめらかなソースが気に入った。実に美味だ」

「よかった」肩の力が抜けた。ファラオの舌をも唸らすエミヤはやはりすごいと思った。「エミヤのマカロニグラタン、大好きなんだ」

「吾も明晩それを頼もう」

「明日もあなたと一緒に食べたいです。いいですか?」

「いいとも」プトレマイオスはアスパラガスを半分に切りながら頷いた。「食事はひとりでは味気ないからな」

「このあと読書会もしたいな。あなたと読みたい本があるんです」

「それならば、あとで吾の部屋に来るといい。ともに書を貪ろう」

 枝分かれする会話の中で、料理は少しずつ減っていった。

 皿の端のグラタンを掻き取って、立香はパンをちぎるプトレマイオスをじっと見詰めた。

彼ともっとこんな風に何気ない時間を一緒に過ごしたい。お喋りがしたい。食事がしたい。読書がしたい。隣にいたい。傍にいてほしい……切望が次々と頭の中に浮かんでは消えていく……

不意にプトレマイオスの金色の眸が皿から立香に移った。

「おまえ過ごす時間はかけがえのないものだ。今この瞬間もな」

 柔らかい眼差しと穏やかな声に、胸の中で温かい親愛が湧いた。

「おまえとの時間を大切にしたい」

ふたりは見詰め合った。見詰め合うだけで十分だった。

プトレマイオスから向けられる、グラタンのチーズのようにとろとろにとけた熱い愛を頬張れるのは、立香だけだった。