※ちょっとだけ『オデュッセイア』ネタがあります
「トロイア戦争が終結したにも関わらず、国に帰還しなかったオレを死んだものと決めつけ、多くの男が財産と権力を目当てにペーネロペーに求婚したが、彼女は佞言や甘言を跳ねのけ、オレを信じて待ち続けてくれた。ペーネロペーの元に戻るのに二十年もかかってしまったが、どんな時もオレの心にはペーネロペーがいた」
オデュッセウスが語り終えると、立香の隣でアンドロメダが「うわ〜、キュンキュンする~」黄色い声を上げた。
彼女がオデュッセウスとその妻であるペーネロペーの話が聞きたいというので、ラウンジでいつものメンバー——アンドロメダと、立香と、マシュ——に加え、「恋バナとはなんだ?」とよくわかっていないオデュッセウスを半ば強引に誘って、こうして「恋バナ」をしているのだが、断片的とはいえ、壮大な愛の物語を実際に本人から聞くのは、彼の冒険譚として有名な『オデッセイア』を読む以上に刺激的だった。
「ペーネロペーはオレの最愛の人で、オレの唯一無二の宝だ」
かつて、数多くの海難を乗り越えて国に戻り妻と再会した男は、カルデアにはいない妻の姿を瞼の裏に思い浮かべているのか、目を細め、穏やかに微笑んだ。
「わたしもいつか結婚したらそんな風にひたむきに愛されてみたいなあ……」
立香が胸にこもった体温をふーっと吐き出すと、オデュッセウスは端正な顔を綻ばせた。
「お前なら、神にも愛されるさ」
「そうです、先輩なら、間違いなく深く愛されます!」
「うんうん、ぜーったい、素敵な人と運命的な出会いをするよ! あ、もうしてたりして!」
「えー、ないない」
「あるよー、ぜーったいあるー!」
ラウンジにアンドロメダの可愛らしい声が響く。
朗らかで楽し気な様子と、立香の照れる顔を遠くから見詰めるひとつの影があったが、それに四人が気付くことはなかった。
――ぜーったい、素敵な人と運命的な出会いをするよ! あ、もうしてたりして!
自室に戻っても、アンドロメダの無邪気な笑顔とロマンティックな言葉は立香の頭から離れないでいた。
多くの英霊たちと共に過ごしてきた立香にとって、「素敵な人」がどんな人なのかわからなかったし、「運命的な出会い」というのもいまいちピンとこない。ただそれでも、立香はある男――かつて敵だった、滅亡した文明の神であり、グランドクラスのサーヴァントである、今は恋人である男――のことを思い浮かべていた。
「なんで、意識しちゃうんだろ」
微苦笑してベッドに背中から倒れ込んで天井を見詰めていると、だんだんと頬が熱を帯びていった。
「……っ、もうっ……」
恥ずかしくなって、両手で顔を覆った時、入口のドアが開く無機な音がして、立香はバネのように飛び起きた。
「よう、マスター」
「テ、テスカトリポカ」
立香の顔はますます火照り、胸の下では鼓動が速くなった。
当たり前のように、彼は立香の隣に腰掛け、薄い笑みを浮かべて「色恋の話でずいぶんと盛り上がっていたな」言った。
「ん」立香は目を丸くさせた。「もしかして、ラウンジにいました?」
「いや、たまたま通り掛かっただけだ。オマエがひたむきに愛されたいと思っているとは知らなかった」
「それは、その……」耳が熱くなるのを感じながら、立香は唇を尖らせた。「女の子なら誰だって好きな人にそんな風に愛されたいと思います。ううん、きっと、人ってそういうものです」
「ヒトが望む愛ってのは、シンプルだからこそ複雑だ。男と女の駆け引きってのは、思い通りにいかないもんだ」サングラスのレンズの下で、テスカトリポカの涼し気な目が瞬いた。「ただひとりの相手を心に留め、ひたむきに愛情を注ぎ、互いを想い合う……生憎、オレにはできない。《《博愛主義》》でね」
「博愛っていうか、人を平等に扱わないと神格を失うんですよね?」
「ほんのジョークだ。そこは笑うところだぜ」
長く白い指の背が立香の頬に触れた。指は頬の輪郭をなぞり、顎を掴んだ。
「笑ってくれよ」
「笑えないです」
テスカトリポカの顔が立香の顔に近付いていき、唇同士が重なった。触れるだけの口付けだったが、温もりがあった。立香は、無意識にテスカトリポカのジャケットの襟元を引っ張っていた。
「なんだ、離したくないのか?」
「……うん……甘えたい……です……」
「いいぜ。甘やかしてやろう。オレなりの愛情表現ってヤツだ」
視界が反転し、立香は再びベッドに倒れていた。天井を背にしたテスカトリポカが、眼前と身体を覆っていた。
彼に胸を焦がすほどの恋心を打ち明けた夜と、処女を捧げた夜が、部屋を満たす生き生きとした夜に被さった。
ふたり分の服がベッドの下に落とされていく。男と女の体重を受けたベッドは軋み、剥き出しになった肌をまだ青い官能が這う。テスカトリポカからの愛撫に反応する立香の嬌声がランプの仄燈に照らされた。快楽は、ゆっくりと立香を甘美な深い夜へと引きずり込んでいった。
「テスカ、トリポカ」
潤んだ秘裂を往復する男の圧倒的な質量は、立香の胎の内側を満たした。テスカトリポカの肩甲骨の窪みに指を引っ掛けて、立香は熱に浮かされ、吐息混じりに艶めいた声を零す。彼女は不随意な極致感に何度も呑み込まれた。熟れた官能はぐずぐずに盪くしてシーツに転がっている。
柔らかく湿った胎の中に根元まで深々と男の本能を突き入れ、リズミカルに腰を打ち付けながら、テスカトリポカは彼女の唇を塞いだ。口腔でくねる小さな舌を絡め取り、唾液を流し込み、熱っぽい息すら逃さまいと粘膜を犯し尽くした。
「立香」
「ふう、ぅ、んっ……」
「オレはたとえ二十年経とうが、オマエがくたばる瞬間まで気長に待つつもりだ。オリーブの木でできたベッドはミクトランパにはないが、もっといいベッドがある。ただ今は……このベッドで充分だな」
テスカトリポカは、己に身と心を捧げたこの娘に、灼熱のような快楽だけでなく、男と女の情熱的な愛も教えてやりたいと思っている。しかし、それを口にするつもりはなかった。
「っあ、ぅ、あっ、イくっ、~~~~~っ!」
濡れた肉同士がぶつかって破裂音が弾け、立香の身体が大きく痙攣した。それに合わせるように胎内が収斂する。テスカトリポカは腰を止め、四方から己を締め上げる肉壁のうねりを味わった。
「好き」
不意に、立香が呟いた。
「わたし、あなたが好き」
テスカトリポカがあまねく向けられてきた敬意でも畏怖でもない感情は、重たく、心地よく、甘い響きを含んでいた。
「今の言葉は、唯一の価値がある捧げものとして受け取っておこう」
生理的な涙で潤み蕩けた立香の双眸を見下ろし、テスカトリポカは口の端を緩め、ふっくらとした桃色の唇に口付けを落とした。
立香にとって、テスカトリポカは「素敵な相手」ではない。だが、「運命的な出会い」というのは、当てはまるのではないかと彼は思う。たとえそれが「死」からはじまったものであっても、今はこうして戦う彼女の傍にいるのだから……
背中に回った薄い手に抱き寄せられ、ふたつの肉体が引き合い、体温が溶け合った。
ベッドの上で、砂糖よりも甘ったるいふたりだけの夜が静かに更けていった。