契約したマスターの能力を上昇させるテスカトリポカの『戦士の司』は、魔術回路に干渉する力だ。
こんな力を持つサーヴァントははじめてだった。
貧弱な回路しか持たない、魔術師としては未熟な、もっといえば代々魔術師の血統ではないただの一般人であるわたしにとって、肉体への負担が大きいのではないかという懸念があったが、テスカトリポカは飄々と「なに、心配するな。おまえさんにほんの少し、バフを盛るだけだ」と言った。
彼の言う通り、今のところ問題なく戦闘において戦神の恩恵を受けている。それでも、夜の帷がゆっくりと昼の境界線を覆っていくように、わたしの身体には、或る変化が起きていた。
ついさっきお昼ご飯を食べたばかりなのに、もうお腹が空いた。ここのところ、ずっとそんな調子だ。
揺るぎない理性でなんとか空腹を堪えようとするものの、食欲という本能がそれをさせない。
ブリーフィングを終え、夕食の時間まで自室にこもって午前中に受けた戦闘訓練についての反省点や課題をレポートに纏めるつもりだったのに、足は食堂へ向いていた。
結局、ホットケーキと、ミルクたっぷりのホットコーヒーを注文してしまった。溶けたバターとメープルシロップがたっぷり掛かった分厚いふわふわのホットケーキを平らげてコーヒーを飲み干すと、満腹になった。
——最近食欲旺盛だな。
——なんだ、マスターは育ち盛りか。
空になった皿を見て笑ったエミヤとビーマに見送られて食堂を出た。
自室に戻る廊下を鷹揚と歩きながら、俯いて、溜息を噛み殺す。あの時彼らに向けた笑顔は、きっとぎこちないものだったに違いない。
旺盛なのは、食欲だけではなかった。誰にも言えないし、知られるわけにもいかないが、性欲も増していた。とはいえ、それはテスカトリポカと男女の仲になったからだと思う。身も心も蕩けるような快楽を知ってしまったのだから、彼を求めてしまうのだろう。今だって——テスカトリポカに抱かれてしまいたい。
顔が熱くなった。悶々としながら歩いているうちに部屋に着いた。ドア横の端末に触れてロックを外すと、無機な音を立ててドアが開いた。
「あ」
部屋にはテスカトリポカがいた。ベッドに腰掛けて長い足を悠々と組んで、わたしが置きっぱなしにしたタブレット端末を操作していた。
「よう、邪魔してるぜ」
彼はタブレット端末から顔を上げた。
「なにを見てるんですか?」
「おまえさんのレポートだ」
「えっ、やだ、まだ途中だから見ないでください。恥ずかしい」
隣に座ると、彼は白い歯を見せて笑い「だろうな。ほとんど真っ白だ」タブレット端末をすんなり返してくれた。
画面が暗転した端末をナイトテーブルに置くと、テスカトリポカは「甘い匂いがする。チョコレートじゃないな? なにを食ってきた?」距離を詰めて鼻を鳴らした。
「メープルシロップたっぷりのホットケーキを食べてきたんです。……お腹が空いちゃって」
すぐ傍にある白い端正な顔を見据える。「旺盛だな」サングラスのレンズの下で涼しげな眸が瞬いた。途端に、猛烈に形のいい薄い唇に噛み付くようにキスをしたくなった。本能が膨らんで、ごくりと喉が鳴る。
「あのね、相談があるの」
「なんだ?」
「あなたに力を授けてもらってから、食欲と……その……せ、性欲……が、旺盛に、なっちゃって……」
声は段々とか細いものになっていった。最後はほぼ吐息だった。真っ直ぐにテスカトリポカを見詰めることができなくなって視線を泳がせる。恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
「どうしてなのか、自分でもよくわからなくて。あなたなら、理由がわかるかなって思って……」ややあってテスカトリポカを上目に見やる。彼は蛇のような目をしていた。「ごめんなさい。変なこと言っちゃった」
忘れて、と結んで顔を逸らすと、顎を掴まれた。顔が正面に戻り、鋭い眼差しに射抜かれた。
「相談なんだろう? 顔を逸らすな」
「う、うん」
顎から手が離れた。
テスカトリポカは頭のうしろを掻いて「そうだなあ」と切り出した。
「別におかしなことじゃない。戦いとは、生きるか死ぬかだ。そんな状況に長く置かれれば身も心も磨耗し、本能は覚醒する。ヒトの本能も獣と同じだ。生きるために食い、命を繋ぐために子孫を残す。おまえの力を助長させる『戦士の司』は、闘争に身を投じるおまえの本能まで駆り立てたんだろうな。少し甘やかしすぎたかもしれん。回路を見てみよう。だが、その様子じゃあ、今は——」テスカトリポカの唇が耳元に寄る。「腹が減っているんだろう? ウサギさん」
飛び跳ねていた理性が、足を滑らせて本能の奈落に落ちていく。息をするのを忘れた。劣情が盛火となって腹の内側を灼き尽くしていく。
「……わたしを、満たして」
視線がぶつかると、テスカトリポカは唇の端を舌先で舐めた。それから長い髪を一房耳に掛け、喉の奥で低く笑い、わたしに覆い被さってきた。