港町の猫

「見て、マスター。あそこに猫がいるわ」
 立香が足を止めてナーサリーの指の先を追って視線を上げると、路地の反対側の石塀を、眸の青い真っ白な猫が歩いていた。
 鷹揚と歩いていた猫は、立香たちに向けて「ミャア」と可愛らしい声を上げると、塀から飛び降り、長い尾を揺らしながら歩み寄ってきて、立香の足にしなやかな身体を擦り付けた。
「懐っこい猫だね」
「マスターが優しいのがわかるのね」
 特異点のはじまりでもあるこの街で、立香が最初に見掛けたのも猫だった。海が近い港町だからだろうか、この街には野良猫がたくさんいる。街の人は猫たちに対して寛容だった。猫たちもまた人間に慣れていたが、こうして甘えてくる猫ははじめてだ。
 立香はしゃがみ込んで、チッチと舌を鳴らして平たい猫の額を撫でた。猫はうっとりと目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らし、もっと撫でろと言わんばかりに彼女の手に頭を押し付けた。
「すごく可愛いわ」
 顔を綻ばせ、ナーサリーも小さな手で猫のなだらかな背中を撫でた。猫はやがて大きく喉を鳴らしながら地面に寝転がって、身体をぐねぐねとくねらせた。
「可愛いね〜、よしよし……」
「とてもいい子ね」
 束の間の朗らかな時間に、ふたりはくすくすと笑い合った。
「こんなところにいたのか」
 不意に背後から声がして、立香は振り返った。テスカトリポカが煙草を咥えて、ジーンズのポケットに片手を突っ込んで立っていた。
 街に着いて、立香は彼と二手に分かれて情報収集をしていた。日が暮れてから宿で合流するはずだった。彼のことだから、わたしたちが遅いので心配になって捜しにきてくれたのかもしれないと立香は思った。
「テスカトリポカ。見てください、懐っこい猫——」
 立香が顔を正面に戻すと、猫は起き上がっていた。姿勢を低くして四肢を突っ張ったまま、ぴくりとも動かずに目を瞠っている。ガラス片のように鋭い瞳孔は、突然現れたただひとりの男を捉えていた。
 猫は背中を丸めると、耳を倒して全身の被毛を逆立てて、牙を覗かせてフーッと鋭く鳴いた。
 豹変した猫を前に、立香は怯んだ。
 猫は弾かれたように身を翻すと、路地の奥へと走り去ってしまった。
「どうしたんだろう? 今まで甘えてたのに」
「さあな」
 テスカトリポカは興味がなさそうに煙を吐き出した。
「猫に構ってる時間はないんじゃないか? 『時は金なり』だ。宿で情報交換といこう」
「……うん、そうですね。行こっか」
 立香は立ち上がり、歩き出した。テスカトリポカも彼女のあとに続いた。
「動物を触ったあとは手を洗えよ」
「はーい」
 並んで歩くふたりの背をナーサリーは見詰めた。地面には、立香の影を飲み込む神の巨影が張り付いている。
 猫が感じたであろう恐怖は想像に難くない。 猫にはテスカトリポカの本当の姿が見えていたのだろう。猫の本能は正しい。人ならざるものの圧倒的な存在感と威圧感を前にすれば、どんな生き物も逃げ出して当然だ……
 ナーサリーは猫が姿を消した塀と塀の薄暗い隙間を一瞥し、前を歩くふたりの方へ顔を向けた。
 テスカトリポカが首を巡らせた。彼は黒い示指の先を口元に添え、意味ありげな薄い笑みを浮かべた。まるで悪戯をした子供のようだった。
 ナーサリーは瞬きをした。そして悟った。テスカトリポカはわざとマスターに甘える猫を追い払ったのだと。
「大人気ない神様ね」
 ナーサリーの囁きは、遠くから風に流れてきた汽笛に掻き消された。港町の空を帆翔するカモメが鳴いた。潮風のにおいがする夜がくる。