山の翁とテスカトリポカとぐだ子

 タブレット端末に転送された昼間の戦闘データを見る立香の横顔は真剣だった。「もう少し新しい魔術礼装のスキルを活かせたらな」だとか「もっと精度を上げないと」だとか、ぶつぶつ言っている。
「そう思い悩むなよ。いい采配だったと思うぜ」
 世辞ではなく、素直な評価を口にすると、立香は「ありがと」と、戦場で勇ましく采配を振っていたとは思えないほど柔らかな笑みを浮かべた。
 いくつ目かの角を折れたところで、通路の奥に黒い巨躯を見た。黒衣を纏う暗殺者の長であり、オレに貸しを作っている元グランドアサシン、翁さんだった。ゆっくりとした足取りでこちらに向かって歩いてくる。
「キングハサン」
 立香は嬉しそうに翁さんに手を振って、小走りに寄っていった。それから楽しそうにお喋りをはじめた。まるでじゃれる仔犬みたいに。
「おいおいマスター、オレにもじゃれついてくれよ。妬けるだろう」
 立香に向いていた青い対の光がオレに向く。髑髏の仮面の下から、ただそこにあるものを見るように、翁さんはオレを見ている。
 視線はすぐに逸れた。先に逸らしたのは翁さんだった。はじめて言葉を交わした時に、生きるために戦う山の民と、死ぬために戦う太陽の民の信仰は異なるものであり、「貴様とは論ずるに能わず」と言われた時のことを思い出した。
 立香はオレと翁さんを交互に見て、ややあって「なんていうか、ふたりとも、お互いに淡白ですよね」言った。
「オレはお近づきになりたいが、翁さんはオレとあまりお喋りしてくれなくてね。なあ? 翁さん」
「よく喋る鏡だ」
「ハハ、翁さんは聞き上手みたいだな」
 立香はタブレット端末を抱きかかえ「ストップ!」声を上げた。
「ふたりには助けられてます。最近一緒に戦うことも増えました。だけど、もしかして相性が悪い感じですか? それなら無理に一緒にしたりしませんけど……」
「いや」言葉を切って翁さんを一瞥する。「そういうわけじゃあない。少なくともオレはな。翁さんの戦いに対する姿勢は好きだぜ。ガッツがある」
「偽りや不正を嫌い、勤勉であることは好ましい」
 眉間にシワを寄せて、立香は顎を撫でた。
「……つまり、仲良くなれる可能性があるってことですよね?」
「だろうな。お互い踏み入るべきではないところを線引きすれば、の話だが」
「わかりました」
 立香は胸を反らし、息を大きく吸った。
「じゃあ、親睦を深めましょう。というわけで、今から三人で映画鑑賞しましょうっ」
「……なんだって?」
 突拍子のない提案だった。
「シアタールームを貸し切るために管制室に申請してきます。先に行っててください。ふたりで」
 最後を強調するように言ってから、立香は眩しいくらいの笑顔で踵を返した。遠ざかる背中から目が離せない。煙草が喫いたくなった。
「ということだ。翁さん。オレを置いて逃げないでくれよ」
「契約者の望みであるのなら、従おう」
「アンタも真面目だよな。オレは一服してから行くよ。先に行っててくれ」
 翁さんが唸ったので、背中を叩いてやりたくなった。

 シアタールームといえども、こじんまりとしたプライベートルームだ。一度だけ行ったことがあるが、広さはマスターの自室とそんなに変わらない。天井が高く、防音、音響設備はしっかりしている。メインになるスクリーンに、ローテーブル、あとはデカいソファがあったのを覚えている。
 喫煙所でゆっくりと煙草を味わってからシアタールームに向かった。
 中に入ると、室内は暗かった。スクリーンの白い光だけが周りを照らし出している。
 ふたりはソファに座っていた。翁さんは石像のように動かない。あの大剣はソファの肘掛けに立て掛けていた。
「せっかくだから、作ってきました」
 立香はデカいバケツに入ったポップコーンを抱きかかえていた。ローテーブルにはストロー付きのグラスが人数分あった。中身がなんであれ、翁さんは飲まないだろうが。
「準備万端ってワケか」
「さ、テスカトリポカも座ってください」
 左隣をぽんぽん叩く立香に促され、腰を下ろす。尻の下でスプリングが軋んだ。デカいソファなのに、余裕がない。
「で? なにを観るんだ」
「ゾンビ映画です」
「マジか」
「ずっと観たかったやつがあるんです」
 立香はリモコンを操作しながら言った。
「いいだろう。このメンツで恋愛映画を観てもな」
 苦笑して、立香の手元からポップコーンを取る。シンプルな塩味だ。
 ソファの背凭れに腕を載せ、足を組む。画面が暗転して、映画がはじまった。立香が背凭れに寄り掛かる。
 ストーリーはよくある話だった。未知のウィルス、歩き回る死者の群れ、安全な場所へ逃げ込み、立てこもる主人公たち。極限状態での仲間同士の争い、感動的なヒロインとのやり取り……それでも中々面白い。仲間の自己犠牲によって窮地を脱するシーンなんか特に。ポップコーンを食べる立香の手が止まるのもよくわかる。
 波乱はあったが、順調に思えた。
 そして、主人公たちが立てこもった建物で、盛り上がった男と女がまぐわいはじめた。そのシーンが生々しくて、結構長い。立香の方へ視線を滑らせると、俯いて、減らないポップコーンの山を見詰めていた。翁さんに至っては大剣の方を向いている。思わず眉間にシワが寄る。
 なんともいえない気まずさは、お楽しみ中の男と女が入り込んだゾンビたちに食われたことで終わった。
 そこからは銃撃戦だ。なんで素人が撃ってあんなに弾が中るんだ?
 ストーリーが進むごとに、生存者は少なくなっていった。ついに、「残ったみんなで一縷の望みを掛けて新天地へ向かおう」という流れになった。
 盛り上がるところで、口寂しくなってポップコーンを食おうと隣に意識を向ける。
 立香は、翁さんに寄り掛かっていつの間にか眠っていた。
「これからエンディングって時に寝落ちかよ。オレと翁さんでこのままゾンビ映画を観ろっていうのか?」
 翁さんが示指を口布へ寄せた。静かにしろということらしい。
 仕方なく、黙って続きを観ることにした。いや、ここまできたら、最後まで観るべきだろう。
 観るものを打ちのめすような、絶望的なエンディングだった。主人公たちの抵抗虚しく、みんなゾンビたちに喰われた。物悲しい音楽が流れ出し、エンドロールが流れ出す。
 翁さんが立香の腕からゆっくりとバケツを取り上げ、ローテーブルに置いた。
「翁さん、マスターを部屋に連れて行きたい逸る気持ちもわかるが、映画はエンドロールまで観ないともったいない」
「〝映画鑑賞〟というのは……よくわからぬものだな」
 翁さんは観念したのか、スクリーンを見詰めた。音楽が止まり、暗かった画面が真っ白になる。
「面白かったな。全滅オチってのがいい。文明は滅んでこそだ。気に入った。翁さんはどうだ?」
「亡者が歩き回り生者の肉を喰らうなど、荒唐無稽な話だ」
「そう野暮なこと言うなよ。フィクションは楽しむものだ」
 グラスを引き寄せ、残っていた温くなったコーラを啜る。
 翁さんは片手で眠り込んでしまったマスターを横抱きにして立ち上がり、大剣を携えると、鷹揚と出口に向かった。
「オレも行こう。映画を観たあとは感想を語り合うものだからな」
「好きにするがよい」
 揃ってシアタールームを出ると、通路は燈が落ちて、夜間灯に切り替わっていた。
「ゾンビが走るのはスリリングだったな。おまけにしぶとくどこまでも追いかけてきやがる。数百の群れが押し寄せるシーンは迫力があった」
「あれも、首を断てば死ぬか」
「そうだな。首が落ちればゾンビも死ぬだろう。ん? 一度死んでいるなら……なんていうんだ?」
 頭を掻いて、ジーンズのポケットに手を突っ込む。靴音だけが通路に響く。
「なあ、少しは打ち解けたんじゃないか、オレたち」
 一拍置いて、翁さんが首を巡らせた。眼窩に宿る青い光が強くなった気がした。
「此度の契約者の計らいには感謝しよう。なれど、貴様とは別懇になろうなどとは思わぬ」
 低く重たい、冷たい声だった。思わず笑みが漏れる。
「論ずるに能わず、だろ。わかってるさ。オレのことは立香と契約をしているサーヴァントのひとりとして見てくれていい。ビジネスライクな関係ってヤツだ」
 角を曲がる。通路は薄暗い。立香の部屋はまだ先だ。
「貴様が契約者と共に戦う限りは、我が晩鐘の音が鳴り響くことはない。覚えておくがいい、山の心臓、煙る鏡よ」
「オレは勇敢に戦う者しか認めん。マスターが戦うことを諦めた時は、オレ自身の手で殺すと決めている。オレの前に立ちはだかるのなら、まずは翁さんの信仰の染みた心臓をブチ抜こう。まあ、今のマスターなら、そんなことにはならないと思うがね」
 夜間灯に浮かび上がったふたり分の影が傾いた。
「人類最後のマスターの戦いはまだ続く。長編のノンフィクションだ。それをオレたちは特等席で見ている。エンドロールにはまだ早い。そうだろう?」
「……エンドロール。エンドロール、か」翁さんは慣れない言葉を復唱した。「よい。それを、見届けよう」
 会話はそこで途切れたが、充分だった。
 間もなくして、立香の部屋に着いた。ナイトテーブルのランプの燈を点けてやる。
 翁さんは慎重にベッドに立香を下ろし、ブランケットを胸元まで掛けた。
「よく寝てやがる。……疲れてたんだろうな」
「夢を見ぬほどの深い眠りであればよいが」
「そうだな」
 規則正しい寝息を立てる立香の寝顔を覗き込む。穏やかな寝顔だった。苛烈な戦いのことなど、知らないかのように。
「よく眠れよ、マスター」
 ぽつりと呟いて、翁さんの方へ視線を滑らせる。
「さて、オレはこれから食堂に行ってステーキを食ってくる。血の滴るレアで、だ。翁さんもどうだ?」
「我は夜警に向かう」
「じゃあ、ここで解散だな」
 ランプの燈を消して、部屋を出る。
 オレは左へ、翁さんは右へ歩き出した。
 歩き出してすぐに足を止めて、振り返る。
「翁さん」
 呼び止めると、白い仮面がこちらに向いた。ニヤニヤしていると、翁さんは「なんだ?」といわんばかりに首を傾けた。
「有意義な夜だったぜ」
 片手をひらりと振って、じゃあまたなと結んで、再び歩き出す。
 食堂に辿り着くまで、さっき観た映画の内容を反芻した。立香にはネタバレしないでいてやろう。