「マスターもずいぶんと可愛らしい嘘をつく。エイプリール・フールなのだからもっと大きな嘘をついてもいいのに、微笑ましいものですね」
 喫煙所に向かう途中にすれ違いざまに耳に入った会話と控えめな笑い声は、喫煙所の壁に寄り掛かって煙草をくゆらせている間もテスカトリポカの頭から離れなかった。
 エイプリル・フールという風習が世界的に広まっていることを知っている。四月一日である今日は「午前中だけは誰もが嘘をついてもいい」のだ。
 果たしてマスターは、周りに一体どんな嘘をついたのだろうか。少なくとも、彼女はテスカトリポカに嘘をついていない。今朝食堂で朝食を一緒に摂った時もいつもと変わらなかった。こうしている間にも時間は過ぎて、もうすぐ午後になる。午後になったらこの馬鹿げた祭りは終わりだ。
喫煙所を出てあてもなく通路を歩いていると、いくつ目かの角を曲がったところで、彼女を見付けた。
「よう、マスター」ジーンズのポケットに突っ込んでいた片手を上げると、マスターは朗らかに微笑んでそばに寄ってきた。
「よかった、ちょうど捜してたの」
「オレを? 用件はなんだ」
 いよいよ彼女が嘘を口にするのかと思って、テスカトリポカはサングラスの下で目を細める。立香は微笑みを浮かべたまま「実はね」と切り出した。「これから種火を集めに行こうと思ってるんです。一緒に来てくれませんか?」
「資源を回収しに行くのか。いいだろう。戦いとあらば喜んで行こう」
「わたしは一度部屋に戻って準備をするので、十五分後に管制室に集合でお願いします」
 どちらが先というわけもなく歩き出す。不揃いな靴音が通路に響く。彼女の部屋はこの通路を進んで二つ目の角を折れたところだから、途中までは一緒だ。
「ねえ、今夜、部屋に来てくれませんか? 最近ふたりきりで過ごせてないから……すごく、寂しいです」
「……寂しい?」
 普段そういった願望を口にしない彼女は、今日は珍しく甘えたがりだ。何故今日に限ってこんなことを口にするのだろう。
 通路の突き当たりでテスカトリポカは足を止め、冷ややかに彼女を見下ろした。
「もしかして今のは、嘘か?」
「どうして、そう思うんですか?」
 彼女は悲しそうに眉を垂らした。そして項垂れると、「やっぱりさっきのは忘れてください。それじゃあ、またあとで」テスカトリポカに背を向けて歩き出した。
 テスカトリポカが己の勘違いに気付いたのは、管制室に着いてすぐのことだった。壁掛け時計の針は、とっくに午前を跨いでいた。
「……立香」
 彼は彼女の名前を零し、ジャケットの裾を翻すと、足早にマスターの部屋に向かった。

 部屋に入ると、彼女はタブレット端末を手にしてベッドに腰掛けていた。
「あれ、管制室で待ち合わせって……」
「さっきは悪かった」立香の言葉を遮り、テスカトリポカは彼女の隣に腰を下ろした。「今日の馬鹿げた祭りを意識しすぎた」
「祭り?」
 立香は目を丸くさせ、タブレット端末を膝に置いた。
「あ、エイプリール・フールのことですね」
「てっきり、オレにも嘘をつくものだと思っていた」
「あなたには嘘をつきません。騙されたり、欺かれることは嫌いでしょ?」
 微苦笑し、立香は肩を竦めた。テスカトリポカの薄く開かれた口から言葉が出てくることはなかった。彼は代わりに喉の奥で笑っていた。
「わかってるじゃあないか。嘘や欺瞞などくだらん。そんなものは見え透いている。戯れであっても、オレを騙そうとするのは誰であれ気に入らん」
 騙していいのはオレだけだ、という言葉を飲み込んで、立香の白い頬を掌で包み込んだ。
「今夜はおまえと過ごそう」
 テスカトリポカは距離を詰めて立香の唇を塞いだ。触れるだけのキスをして、このままベッドに押し倒してしまいたい衝動を抑えて、額を突き合わせてくすくす笑う。
「それで? 存分に嘘はついたのか?」
「うん。みんなが笑ってくれるような、そんな嘘を、少し」
 立香のたおやかな指がテスカトリポカの手を握った。
 彼は温かい指を握り返して、甘い期待を双眸に浮かべる彼女にもう一度口付けた。