とろけるような夜に

 厨房の冷凍庫にあったアイスの山の中から選んできたチョコレートアイスの蓋を開け、フィルムを剥がした。咥えていたスプーンの先で表面をつついてみると、カチカチに凍っていて固かった。削り取ることもできるが、少し時間を置いて溶かして食べた方がきっと美味しい。
 立香は素直に諦めて、蓋をしたカップにスプーンを載せてナイトテーブルに置き、折り曲げた膝を引き寄せてヘッドボードに寄り掛かり、枕元に置いた携帯端末を取った。ディスプレイに表示された時刻は午前一時を過ぎている。
 溜息が出た。なかなか寝付けなくて、なんとなく甘いものが食べたくなって食堂に行った。
 冷凍庫の底で大好きな高級チョコレートアイスを見付け、どうしても食べたくて部屋に持って帰ってきてしまった……夜更かしをしてアイスを食べるなんて背徳感たっぷりだが、まだしばらくありつけそうにない。
「うーん」
 溶けるまでベッドにいるのも退屈だ。ふらっと夜の艦内の散歩といこう。十分くらいなら放置しても大丈夫だろう。
「よし」
 立香はベッドを飛び出した。

 いくつ目かの角を曲がると、向かいからテスカトリポカが歩いてくるのが見えた。
「こんな時間に珍しいな。夜更かしか?」
「はい。眠れなくて」
「ちょうどいい。オマエの顔が見たかったところだ」
 テスカトリポカはジーンズのポケットに片手を突っ込んだ。立香の鼓動は一刹那高鳴った。大好きな人からそんなことを言われたら、少なからず期待してしまう。
「バーで教授たちとオマエの話をしてね」
「わたしの話?」立香の胸の中で期待が萎れていった。「悪巧みしてたわけじゃないですよね?」
「オレと旦那をなんだと思っているんだ」
 立香は曖昧に笑った。バーカウンターでひっそり開かれた怪しげな商談を想像したのは黙っていることにした。
「オマエとの思い出話を酒の肴にしていただけだ。教授の話はなかなか面白かったが、アレは少し盛ってるな」
「なにを聞いたんですか? 恥ずかしいな……」
「気になるか?」
「気になります」
「それなら話してやる。おしゃべりといこう。どうだ?」
「わたしも少し話したいです。近いし、わたしの部屋でどうですか?」
 テスカトリポカが口の端を緩めた。ふたりは揃って歩き出した。不揃いな影が並び、足音が静まり返った通路に響いた。

「あ、アイス!」
 部屋に戻るなり、立香ははっとしてナイトテーブルに駆け寄った。カップの周りには水滴がついていた。溶けすぎたかもしれないと思った。濡れたカップを持ち上げて、おそるおそる蓋を開ける。縁に沿ってアイスがじんわりと溶けていた。幸いなことに、食べ頃だ。
「よかったー」立香は安堵してほうっと吐息をついた。それからベッドに腰掛けたテスカトリポカの方へ顔を向けた。「アイス、食べませんか?」
「一口もらおう」
 彼はサングラスを外すと、シャツに引っ掛けた。
 立香はテスカトリポカの隣に座り、なめらかな褐色の表面をスプーンで撫でてたっぷり掬い取って、彼の口元まで運んだ。鋭い犬歯が覗いて、薄い形のいい唇がスプーンを挟み込む。
「甘いな」彼は微苦笑した。「たまには悪くない」
 立香もアイスを頬張った。コクのある濃厚な甘さと、カカオの香りがたまらない。一口二口とぱくついていると「オレにもくれ」テスカトリポカがまた口を開けた。
 ふたりは身を寄せて、ひとつのアイスを分け合った。食べ終わる頃には眠くなって、「眠いんだろう? 寝ちまえ」と促され、立香はベッドに潜った。テスカトリポカもまた彼女の隣に寝そべって、寝物語にバーでの話をしてくれた。モリアーティがテスカトリポカに話したのは新宿での顛末だった。
 立香は瞼の裏に残る新宿の情景を思い浮かべた。あの出来事ももう遠い昔のように思えるが、モリアーティの言葉をはじめ、サーヴァントたちとのやり取りも、戦いもありありと思い出せる。
「オレの知らないオマエの話は聞いていて飽きない。オレの知らないオマエをよく知る者たちが羨ましくも思える」立香の頬を指の背で撫でながら、彼は涼しげな切れ長の目を細めた。「オレが祝福するに値する戦士の姿を記録でしか知り得ることができないのが惜しい」
「わたしもあなたのことをもっと知りたいと思う時があります」
「本当?」
「うん。わたしが知るのはあくまでアステカの人々をはじめとした汎人類史から見たあなたや、ミクトランで戦ったあなたでしかない」
 立香は目を瞬かせた。
「だから、今、誰も知らないあなたをひとつ知るたびに嬉しくなるの。でも、「ああ、この人は神様なんだ」って思うし、わたしはあなたのことを知っているようでよく知らないんだって思い知らされる。わたしは、赤も、黒も、青も……あなたの全部を知りたい」
「それはオレに惚れてるからか? それともマスターとして?」
「どっちもです」
 テスカトリポカが身じろぎした。「オマエが戦う意志を持ち、歩みを止めない限り、オレは傍にいるさ。その間にオレたちを知っていけばいい。オレがオマエの旅路の記録を見てきたようにな」ベッドが軋んだ。
「さあ、もう休んだ方がいい。明日からの戦いに備えておけ」
「……うん」立香は吐息をついた。
 テスカトリポカとの関係は、さっき食べたチョコレートアイスのようだ。甘いだけでなく、頬張ればほろ苦い。公正で、気紛れで、律儀で、冷酷——相対する性質を持つ彼を知れば知るほど、関係は甘くなるか苦くなるかわからない。
 それでも、誰も知らない「(テスカ)(トリ)(ポカ)」を知りたい――立香はそんな渇望を心臓に秘めている……愛おしい体温に縋り、重くなった瞼をゆっくりと下ろす。とけた意識に眠気が被さって、深い眠りに落ちた。