茫洋と広がる闇の中で、か細い女の啜り泣きがした。
泣き止ませないといけない気がして、嗚咽を辿って手探りで声の主を捜すが、辺りは暗くて、数メートル先も見えない。
なにかにぶつからないように慎重に歩を進めた。声の大きさからして、距離は確実に縮んでいる。
やがて、不自然にうすらぼんやりと闇に浮かび上がる、しゃがみこんだ女の背中を見付けた。手を伸ばして声を掛けようとしたが、喉の奥から声が出ることはなかった。薄く開いた唇からは、吐息だけが漏れる。
「ヒトの心臓がほしい」
ふっと嗚咽が途切れて、女が呻いた。放たれた声は酷く冷たかった。女の声はわたしの聴覚器官を揺さぶり、静かに脈打っていた心臓を鷲掴みにした。女が人ならざるものであることがわかった瞬間、身体が震えだした。気付かれたら、殺されるかもしれない。
「心臓がほしいのよ」
女はまた泣き出した。幸い女はわたしに背中を向けている。逃げなければと思った。息が乱れはじめる。音を立てないようあとずさりする。
不意に女が泣き止んで、ゆっくりと首を巡らせた。見開かれた血走った目と視線がぶつかった。
「ああ、あなた……ヒトね」
女が立ち上がる。放たれる禍々しい凄気に慄いた。
アレは人ではない。女はおそらく——怪物だ。
吸い込んだ空気が喉の奥でひゅっと鳴った。瞠った目に飛び込んできたのは、薄暗い自室の見慣れた天井だった。
インナーの下で肌がじっとりと汗ばんでいた。身体を起こし、ふーっと深く息を吐いて、ナイトテーブルのランプに手を伸ばした。
燈が灯ると、室内に降りた重たい眠りの帷が照らし出された。瞬きを繰り返して胸に手を当てる。心臓がどくどくと暴れ馬のように跳ねていた。
「どうした?」隣で背を向けていたテスカトリポカの眠たげな声が耳朶を打った。彼は起き上がると前髪を掻き上げた。薄い眉が怪訝そうに寄っている。「夢でも見たか?」
「暗闇の中で女の人がずっと泣いていたんです。『ヒトの心臓がほしい』って」
「マジかよ」テスカトリポカの眉間にシワが刻まれた。
「トラルテクトリの夢を見たのか。オレに引っ張られたのか?」
「……トラルテクトリ?」
「オレの片足を食いちぎった性悪だよ」彼は顔を顰めた。「昔、オレとコアトルがアイツの身体を引き裂いて大地と天空を作り出したんだが、姿を変えられたというのに貪欲でな。生贄の心臓を食うまで泣き続け、血を与えなければ実った果実を寄越そうとしない。ワガママな奴だった。まさかおまえの夢に出てくるとは……災難だったな」
テスカトリポカの大きな手が頭に乗った。荒っぽく撫でられて、眼球の裏に焼き付いた悪夢の断片に亀裂が生じ、胸にあった不安が雲散する。
——大丈夫、アレはただの夢だ……。
そう自分に言い聞かせ、ランプの燈に背を向けて横たわり、ブランケットを被った。そしてテスカトリポカに縋るように身を寄せ、右足に肢体を押し付けた。胸の奥で落ち着きを取り戻した心臓が規則的に拍動している。静寂に溶ける鼓動とテスカトリポカの息遣いが心地よかった。目を瞑ると、夢の中で見た飢えた女の顔が瞼の裏に浮かんだ。血の気の失せた顔は、忘れたくてもしばらくは忘れられないだろう。
奥歯を噛み締めて、意識を悪夢の残滓から逸らすために、頭の中で羊を数える。まどろみはじめた時、テスカトリポカの手が強く背中を抱いた。
「悪いな、コイツの心臓はオレのものなんだよ。オマエに渡すつもりはない」
彼の囁きが誰に向けられたものなのか思考する間もなく、意識は眠りの底に落ちた。