祝福

 夕食時の食堂は賑々しかった。
 できたての夕食がのったトレイを手にした立香が隣に腰を下ろした時に生じた微風は、テスカトリポカの知っている芳香を運んできた。
 テスカトリポカはこの香りを知ってはいるが、それは彼が彼女に贈ったコーパルの香のにおいではなかった。
 この甘い香りは——。
「翁さんの香のにおいか」
 テスカトリポカは飲もうとしていたコーヒーから意識を横に逸らした。
 立香は彼の方へ顔を向けると、自分の腕を顔へ引き寄せてすんすんと鼻を鳴らして、「におい、するかな?」小首を傾げた。
「ああ、翁さんを思い出す」
 今日の夕食のメニューは日本風のカレーだった。服や髪に移った香のにおいよりも、皿から漂う食欲をそそるスパイスの香りの方が強い。それでも、テスカトリポカは山の翁の祖である男が彼女に送った香の馥郁としたにおいを嗅ぎ取っていた。
「リラックスしたくて焚いたけど、やっぱりお香のにおいって移るものなんですね」立香は柔らかく笑んでから、皿に盛られた大盛りのカレーに向き直って「いただきます!」両手を合わせた。
「夜はオレの香を焚け」
「ん」ジャガイモを頬張ろうとしていた立香は口を閉じた。再びテスカトリポカへ向けられた目は丸い。
「わかりました。あとでコーパルの香を焚きます」
 コイツは愚直なほど素直だと、テスカトリポカはジャガイモを頬張った立香を見据えてほくそ笑んだ。それから、テスカトリポカは、マグカップに残ったコーヒーをゆっくりと啜った。

  夜も更け、喫煙所で煙草を喫ったあと、テスカトリポカはマスターの部屋に向かっていた。ジーンズのポケットに手を突っ込んで夜間灯が点いた通路を進み、いくつ目かの角を折れたところで、奥の暗がりで、小さな対の青い炎と大柄な濃い影が見えた。
 テスカトリポカは足を止めた。炎と影はゆっくりと近付いてきている。足音はしない。まるで狙いを定めた獲物に向けて這う蛇のように気配もない。だが、誰何(すいか)するまでもなく、テスカトリポカには影の正体がわかっていた。「よう、翁さん。今夜も見廻りか?」 常闇から姿を現したのは山の翁だった。彼の纏った黒衣は、夜間灯の燈を打ち消した。
 髑髏の面の眼窩で青白い炎が瞬く。「夜警は我が勤め」山の翁の声は闇を震わせた。「何用か、煙る鏡よ」
「なに、マスターの部屋に行くところでたまたまバッタリ会っただけさ」
 山の翁は「そうか」とだけ言った。抑揚のない声音だった。一歩踏み出した山の翁の影がテスカトリポカの足元を覆う。彼は、これ以上テスカトリポカと話をする気はないようだった。
「今日、マスターから翁さんの香のにおいがしたぜ」
 山の翁は三歩目で歩を止めた。髑髏の面が僅かにテスカトリポカの方を向く。
「不服か」
 ふたりの間に滴る粘ついた重たい沈黙が頼りない燈に暴かれる。
「いいや」テスカトリポカは、己よりもずっと背の高い彼をサングラスのレンズ越しに三白眼で見やる。「そういうワケじゃあない。気を悪くしないでくれ。翁さんの香はマスターに安らぎを与え、平静さを取り戻させる。とてもいい。休息と平静は戦士に必要なものだからな。オレもあのにおいは好きだ。ただ、夜は(オ)(レ)にふさわしいにおいを纏わせたい」
「貴様は魔術の徒の意思を尊重している。それならば、我が関わることではない。好きにするがよい」黒衣を引きずる山の翁の巨影は、すれ違い様にテスカトリポカの金色の髪をよぎった。床に伸びた不揃いな影が互いに離れていく。
 テスカトリポカは歩みを止めて振り返り、杳とした通路を凝眸し、語り掛ける。
「翁さんがマスターを癒したいように、オレは戦う意志を持つマスターを祝福したいんだ。そのためにあの香をやったんだよ」
 どこまでも続く闇から返事が返ってくることはなかった。テスカトリポカはふっと笑みを零し、踵を返してまた歩き出した。

 夜が世界に帳を下ろすように、立香の部屋はコーパルの煙で満たされていた。
 かつて己を祀る神殿で絶えず焚かれていた芳しさを懐かしく思いながら、テスカトリポカは立香を抱いた。
 事後の独特の倦怠感を背負い、服を着てベッドに腰掛けると、一糸纏わぬ姿でブランケットに潜ったままの立香が「そういえば」だしぬけに言って、身体を起こした。
「どうして、わたしにお香をくれたんですか?」
 彼女は上掛けを胸元に引き寄せ、髪を一房耳に掛けた。剥き出しの肩口や鎖骨には、テスカトリポカが残した鬱血の痕があった。紅い痕は、白い肌によく映えていた。
「気になるか?」
「はい」
 立香が頷いた。テスカトリポカの足の先で、革のブーツがナイトテーブルの上で淡い光を放つランプの燈を吸って魅惑的に照った。
「おまえを特別視するつもりはないんだが、おまえは戦士だ。自ら戦うという意志を持ち、戦い続けるという選択をした。それならば、オレはおまえにふさわしいものを与える」
 テスカトリポカは立香の頬に触れた。指の背に触れた彼女の髪は柔らかい。
「オレたちの国では、コーパルは——」ふっくらとした薄桃色の下唇に親指の腹を添えて、テスカトリポカは目を細め、言葉を切った。「やめておこう。伝えないままでいた方が美しいこともある。日本人はそういう美徳が好きだろ?」
 指を離すと、立香ははにかんだ。
「うん。好きです、そういうの」
「日本人は奥ゆかしいな」
 テスカトリポカは忍び笑いを漏らした。
「さぁ、もう寝ろ。オレは行く。しっかり休め」
「おやすみなさい
「ああ、おやすみ」
 寝る前のキスをして、テスカトリポカは立香の部屋を出た。通路は冷灰のように冷たく、静かだった。
 テスカトリポカは通路の乾いた夜気を浅く吸い込み、ゆっくりと歩き出した。規則的な靴音が夜間灯の薄燈が差す通路に響く。
——マスターに敬意はない。特別視もしない。それでも、おまえが血沸き肉躍る闘争に身を投じるなら、オレも共に戦おう。我らがマスターに戦いの悦びを。オレの戦士に祝福あれ……
 テスカトリポカが纏う祝福の香りは長い尾を引いて、やがて艦内に漂う夜の闇に溶けた。