小夜に落ちる涙の行方

 気が付けば茫洋とした真っ白な世界にいた。
 辺りを見回してみても、天も地も、右も左も白一色だった。どこまで続いているのかわからない、足元に伸びる影すらない白い世界に、取り残されたかのように立っていた。
 目の前のなにもない空間から突然華奢な腕が伸びてきて、わたしの手を掴んだ。
「……っ!」
 血の気のない冷たい手に怯んで振り解けないでいると、今度はすぐ横から太い腕が現れて、肩を引っ張られた。
 腕は次から次へと四方八方から白い世界を割いてわたしの身体に掴み掛かってきた。
「どうしてあなたが生きているの」
 どこからともなく震える女の声が聞こえてきて、大勢の人々の嗚咽と呻吟(しんぎん)が静寂を打ちのめした。
「わたしの家族が消えちゃったの」
「オレの故郷が全部燃えちまった」
「アタシのうちが壊れちゃったわ」
「ああ、我が国が滅んでしまった」 
 恨みつらみが鼓膜を震わせる。耳を塞ぎたくても身体にまとわりつく肉の鎖がそれをさせない。
「わたし■ちの世■を返■■」
 強く引っ張られていた袖口が破れた。声を上げようとして開いた口が塞がれた。瞬きを忘れた目を覆われた。泣き声だけが聞こえる——。
「…………!」
 心臓が大きく跳ねて、見開いた目に常闇が飛び込んできた。
 弾かれたバネのように勢いよく起き上がると、汗がこめかみを一筋伝い落ちていった。呼吸が浅く速い。ブランケットを握る手は体温を失くし、震えていた。全身の血液を抜かれ、代わりに冷水を流し込まれたようだ。
——夢。
 手探りでナイトテーブルのランプの燈を点けると、柔らかな光が灯った。明るさに顔を顰めて瞬きを繰り返して深く息を吐き、のろのろとベッドの縁に腰掛け、背中を丸めて、未だ震えが止まらない手を膝の上で握り締める。
 悪夢は、眠りと心を乱した。正面の白い壁から、今にも腕が突き出してきそうだった。
「ごめんなさい」
 目を閉じると、眼球の裏側にこびりついてしまった悪夢の断片が浮かんだ。
「ごめんなさい」
 言葉にするたび、胸の奥が軋む。目頭がじんと熱くなって、目の前が水っぽく歪んで、泣き出してしまいそうになった。
 拳を膝に置き、奥歯を強く噛み締めるが、唇が小さく震えて、涙が零れた。涙は次から次へと溢れ、流れ、拳に滴り落ちた。
「……っ、ぅ……」
——泣かないって決めたのに。
 胸の奥底に沈めたはずの感情が浮上する。錯雑としたどろどろとしたそれは、心の灯火を消してしまいそうだった。
 耐えられなくて、声を押し殺して泣いた。
 ひとしきり泣いたあと、前腕で顔を擦って、ふーっと息を吐き出す。 途端に、自分だけが弾き出されて世界の端から奈落に落ちていくような、そんな虚しさに襲われた。
 指の先から血の気が引いて、また泣きそうになって俯く。
「……テスカトリポカ……」
 込み上げたのは嗚咽ではなかった。
 もちろんテスカトリポカは部屋にはいない。今もきっと艦内で煙草を吹かしているに違いない。何故彼の名を呼んでしまったのかは自分でもわからない。ただ、今は、彼に会いたかった。そばにいてほしかった。来るわけもないのに。 
 両膝を抱きかかえて目を伏せる。剥き出しの爪先(つまさき)が少し冷たい。
 不意になにかの気配を感じて、おもむろに顔を上げる。
 濃く太い煙が霧のように目の前に立ち込めていた。ランプに灯った緋色の燈を呑み込むほどの煙が雲散すると——テスカトリポカが現れた。
「よう、オレを呼んだな」
 ランプの燈に照らされて、テスカトリポカは不敵に笑んだ。
「どうして、ここに……? 疑似サーヴァントは霊体化できないはずでしょ?」
 まだ熱っぽい目を瞬かせて彼を見上げる。
「ああ。その通りだが、オレは煙る鏡だ。おまえが夜の闇の中でオレを呼ぶのなら、いつだって、どこにだって現れるさ」
 テスカトリポカは平然と言って、わたしの隣に座ると、肩をすくめた。
「なんてな。本当は気配を消してここにいた。気付いてなかっただろ?」
 かっと顔が熱くなる。ここにいたということは、間違いなく、彼はわたしが泣くのを見ていたのだろう。

「自分が死ぬ夢を見た時は泣かなかったおまえが、あんな風に泣くとはな」
——ああ、やっぱり見られていた。
「忘れて」鼻を啜って足元の影の溜まりを見詰めて呟く。「ちょっと怖い夢を見ただけだから」
「どんな夢を見たかは聞かない。オレにそばにいてほしいのならいくらでもいてやる」
 大きな手が頭にのった。手は頭を撫でたあと、わたしを肩から抱き寄せた。
「荒々しい鼓動が落ち着くまで、立ち止まったっていい」
 テスカトリポカの手が髪を乱した。前髪が崩れて、目の前がよく見えなくなる。鼻の奥が痛くなって、目に厚い涙の膜が張った。
 テスカトリポカの胸に崩れて、歯を食い縛って泣いた。
 小夜はわたしの涙を隠し、寄り添ってくれた。落ちた涙の行方は、テスカトリポカだけが知っている。