デスパー様のお宅へ伺う前に、新しくできたケーキ屋で手土産を買うことにした。
私は知らなかったが、デスパー様によると、世界的にも名うてのパティシエがオープンしたケーキ屋だそうで、メディアにもよく取り上げられているそうだ。
その店は歴史的な高級フレンチ店の隣にあった。白と金を基調とした外観で、一目でこの辺りにある店と同じく格が高いのだとわかる。それでも店の外には壁に沿うようにして十人ほどが列を成していた。皆女性客だった。そこへ大柄な男がひとり混ざるのは恥ずかしさもあるが、それよりもデスパー様の喜ぶ顔が見たいという気持ちが優った。
列の最後尾に並んで順番を待ちながら、どんなケーキにするかぼんやりと考えていると、あっという間に行列の先頭になっていた。
「いらっしゃいませ」
店内は甘い香りがした。冷蔵のショーケースには芸術的なケーキが並んでいて、プライスカードにはフランス語と英語で綴られた長い商品名と、ケーキにしてはいい値段が記されていた。
値段は気にしないが、どれにしようか悩む。
背中を丸めて曇りひとつないショーケースを覗き込み、端から端まで眺める。ケーキの群れの向こうでは、店員が微笑みをたたえて注文を待っている。
デスパー様は苺ケーキがお好きだから、それは絶対に頼むとして、あとはなにがいいだろう。ああ、隣の緑色のピスタチオのムースも美味しそうだ。季節のフルーツの彩りが綺麗なタルトも目を惹く。
丸めていた背中を伸ばすと、すぐに店員と目が合った。
「下段中央の苺のケーキと、右隣のピスタチオのムースを。それと、端の、…………。フルーツタルトをお願いします」
「はい。ガトー・オー・フレーズとムース・ア・ラ・ピスタシュとタルト・セゾンですね。かしこまりました」
店員は呪文のような商品名を笑顔で唱え、箱に詰めはじめた。
会計を済ませて店を出ると、行列が増えていた。それを横目に歩き出し、腕時計を確認する。
ここからゆっくり歩いても約束の時間までまだ余裕がある。ありふれた街の雑踏をあとにして、デスパー様の自宅のある住宅街まで歩いた。
どの家の芝生も整えられていて青々しく、日差しを浴びてきらきらと光っている。吹き抜ける風が気持ちいい。庭先で遊んでいる子供の笑い声がする。
デスパー様のボディーガードを勤める身としてはすっかり通い慣れた場所であり、見慣れた風景だ。デスパー様とお付き合いをはじめてから知ったが、この辺りは治安もよく、富裕層が多いそうだ。
赤いポストの家の前を通り過ぎて角を曲がると、向こうからチワワを連れた若い女性が歩いてきた。クリーム色の被毛を風に靡かせて道の真ん中を闊歩する小さな犬のために少しだけ道を譲ると、すれ違い様に突然チワワが吠えた。
「…………!」
私に向かってキャンキャンと吠えるチワワは、リードに繋がれていなければ今にでも飛びかかってきそうだった。動揺して二、三歩後退りする。飼い主の女性が「すみません」と弾かれたように声を上げた。
「ごめんなさい、ほら、行くよ!」
飼い主にリードを引っ張られつつ、チワワは何度も振り向きながら歯茎を剥き出しにして唸っていた。
一体私がなにをしたというのか。
チワワに道の端に追いやられて情けない気持ちになったが、提げていた土産の無事を確認して、また歩き出した。
そろそろ彼が到着するころだろうか。
かけていたレコードを止めて、読んでいた文庫本に栞を挟んで閉じると、インターホンが鳴った。
ソファから腰を上げてモニターを確認すると、隊長が映っていた。彼は背が高いので首から上は映らないが、一目で彼だとわかる。
恋人である彼には合鍵を渡しているし、防犯セキュリティシステムのロック解除の番号も教えているが、彼はいつも律儀にも私が玄関のドアを開けるのを待つ。そして、いつも私の好きなものを手土産として持ってくる。
「待っていましたよ」
ドアを開け、中に入るよう促した。隊長のうしろでゆっくりとドアが締まった。施錠する前に、彼の腰に手を回してキスをねだると、隊長は深々と被っていたキャップを脱ぎ、気恥ずかしそうに微かに笑って応えてくれた。触れるだけのキスだったが、今は十分だ。
「ケーキを買ってきました。ティータイムに召し上がってください」
唇が離れてリップが弾む。隊長は提げていた白い小振りな箱を私に差し出した。箱の側面には、気になっていた新しいケーキ屋の店名が金色のインクで書かれていた。
「ありがとう。紅茶を淹れますから、一緒に食べましょう」
「私がいただくわけには参りません」隊長は首を振った。「デスパー様が召し上がってください」
「私ひとりで食べるなんて味気ないですよ。ちょうどティータイムです。付き合ってください」
一拍置いて、隊長は「では、いただきます」と恭しく首を垂れた。
リビングルームのローテーブルに手土産を置いてキッチンに向かう。ソファに座った隊長の広い背中——姿勢がよく、背筋が伸びている——を時々見詰めて、紅茶を淹れ、蒸らしている間にふたり分の皿とフォークを用意した。隊長のカップには砂糖をスプーン一杯分入れ、ミルクを多めに注いだ。私は砂糖を二杯入れた。もちろんミルクも多めだ。湯気を立てる完璧なミルクティーと食器をトレイにのせてリビングルームに戻り、隊長の隣に腰を下ろす。
「苺のケーキがお好きでしたよね」
隊長が開けてくれた箱の中には、ケーキが三つ入っていた。
「美味しそうですね」
薄くスライスされた瑞々しい苺が生クリームの上で一枚一枚花弁のように飾られた丸い苺ケーキと、カットされた色とりどりのフルーツがたくさんのったタルトがあった。柔らかそうか鮮やかな緑色のムースは、ピスタチオだという。
「苺のケーキにします。隊長はどちらにしますか?」
「デスパー様が選ばなかった方をいただきます」
「それは悩みますねえ……うーん……ピスタチオのムースをもらいます」
「では、タルトをいただきます」
各々の皿にケーキを移す。どちらも白い皿によく映えた。
熱いミルクティーを啜る。恋人と久しぶりに過ごす休日のように甘く、ほっとする。
「実は先程、この近所で散歩中のチワワに吠えられてしまいました」
一口に切り分けた苺ケーキを口に運ぶ途中、隊長がフォークを手にしたままぽつりと呟いた。
この近くでチワワを飼っている家といえば、隣人の若い夫婦だ。仔犬のころから甘やかして育ててしまったせいでかなりワガママなのだと、亭主から聞いたことがある。
「凄まじい形相で吠える、凶暴なチワワでした。離れても私の方を振り返りながらずっと牙を剥き出しにして唸っていて……」
声のトーンから、隊長がけたたましく吠えるチワワの圧に負けたことを察する。
常日頃より私の身辺警護を担っている屈強で優秀なボディーガードは、凶悪な襲撃者に立ち向かう時は一切怯まずに容赦なく制圧するのに、恐れを知らないワガママな小型犬には尻込みしてしまったようだった。
情熱的で温厚な性格だからだろうか、彼は動物によく懐かれるタイプだが、どうやらお隣のチワワには嫌われてしまったらしい。一匹のチワワに道の端に追いやられて固まる隊長を想像すると、なんだか可愛らしくて、思わず笑ってしまった。
隊長は珍しく溜息を零した。そんな彼と距離を詰めて、「元気出してください」背中を軽く叩いてやる。「今度そのチワワに吠えられたら、私が護ってあげますよ」
「いいえ、デスパー様をお護りするのは私の仕事です。そのために、おそばにいるのです」
隊長は身じろぎして言った。相変わらず真面目な男だ。
「仕事じゃなかったら、そばにいてくれないんですか?」
少し意地悪がしたくなって言い寄った。鼻先が触れる距離になる。年下の恋人は初々しく赤面するかと思ったが、しっかりとまっすぐに私を見詰めてきた。
「今もこうしてあなたのおそばにいられることを幸せに思います。私は……あなたのことが好きです」
不意打ちを喰らったのはこちらだった。ごまかすようにふいと顔を逸らす。顔が熱い。もしかしたら、ケーキの上の苺のように顔が赤いかもしれない。
「……デスパー様?」
「あなたのそういうところに弱いんですよ、私」
首を傾げる隊長を横目に、苺ケーキを頬張ろうとフォークに手を伸ばす。見れば、有名なパティシエが作るケーキは、断面すら計算されたように美しかった。
ふたりだけの静かな時間が過ぎていく。
恋人と、ケーキと、ミルクティー。今は、それ以上のものは望まない。