夕食の頃合いに食堂へ行くと、兄ふたりが先に席に着いていた。
「遅れてすみません」
詫びながらいつもの席――王の斜め向かい――に腰を下ろす。
「大丈夫です、私たちか早かっただけですよ」
ゴブレットを口元に手繰り寄せて言い、ゆっくりと中身をあおるデスパー兄のうしろには、料理長が立っていた。
彼が自身の牙城である厨房を離れ、こうして食堂に現れる時は、私たち兄弟に新しいメニューを披露する時だ。彼は常々食に対する見聞を広げており、巷で流行りの菓子や異国の伝統料理を作っては、私たちの舌をうならせる。
「本日は、最近北国で発案されたという菓子を焼いてみました」
咳払いをひとつして切り出した料理長に合わせるように、控えていた給仕たちが音もなく動き、ひとりが最初に王の前にクローシュに覆われた皿を置いた。それに続いて、デスパー兄とオレの前にも皿が置かれた。
クローシュが外されると、白磁の皿の真ん中に、底が平たい握り拳ほどの大きさの、渦を巻いたような独特な形をした見たことのない菓子があった。菓子といってもパイにもパンにも見える。膨れた断面は外側から渦の中心に向けて段になっていて、とぐろを巻いた蛇のようだと思った。そして、菓子の表面には粘度の高そうな白いソースがかかっていて、皿に滴ることなく生地の上で固まっていた。
「シナモンロールです。捏ねて広げたパン生地にバターを塗り、粉末状にしたシナモンと砂糖を振りかけてから生地を丸め、輪切りにして焼いたものです。北国の商人から聞いたレシピを元に作りました」
シナモンといえば、世界でも広く知られる最古の香辛料だ。我が国でも西の国より輸入している。生薬として使われたり、紅茶に入れたりする。
随分前だが、デスパー兄がシナモンミルクティーを淹れてくれたのを覚えている。あれは美味だった。夜もよく眠れた。
「うーん、いい匂いですねえ」
口の端を持ち上げたデスパー兄のうしろで、料理長が厳つい赤ら顔を綻ばせた。
「この、上にかかっているものはなんだ?」
俯いてまじまじとシナモンロールを見詰めていた王が顔を上げて料理長を見た。途端に料理長の緩んでいた顔が締まった。
「そちらは砂糖衣です。卵白と砂糖などで作ります。生地に練り込んだシナモンの味を引き立てます。どうぞ、お召し上がりください」
料理長は一揖し、促すように熟練の技術が染みた掌を徐にテーブルに向けて広げた。
王に倣ってナイフとフォークを手に取り、シナモンロールの中心から手前にかけて切り込みを入れてみる。よく焼けた生地の外側は固めで、内側は柔らかい。切り分けて一口頬張ると、シナモンの香りがふわりと鼻に抜けたあと、バターの風味が口の中に広がった。砂糖衣のねっとりとした甘さとスパイシーなシナモンが驚くほどよく合う。
普段滅多に菓子を食べない王だが、黙々とシナモンロールを食べていた。
「美味い。話を聞いただけではここまでのものは作れないだろう。さすがだな」
「やはり一流のシェフは違いますね。とても美味しいです。気に入りました」
王と参謀からの賞賛の言葉に、料理長は安堵したように微笑み、「身に余るお言葉を賜り、恐悦至極に存じます」深々と首を垂れた。
「これを騎士団の皆にも食べさせてやりたい。また焼いてくれないか?」
最後の一口を飲み込んで、ナプキンで口元を拭ってから言う。
「かしこまりました。明日の昼食にお出しします」
料理長はまた深々と頭を下げた。
騎士団の中には甘いものに目がない者も多いから、皆喜ぶに違いない。
翌日、兵舎の食堂に焼きたてのシナモンロールが大量に届けられた。
異国の菓子を前に、部下たちは皆目を輝かせた。鍛錬を終えた空腹の彼らのために焼かれたシナモンロールは、昨晩食べたものよりも二回りほど大きかった。
部下たちはシナモンロールを手掴みで食べた。菓子なのだから、もしかしたら、それが本来の食べ方なのかもしれない。
「お前たち、行儀が悪いぞ」
山盛りのシナモンロールの入った籠を抱えたまま、隊長が苦笑する。彼らが腹を空かせていることをわかっているから、強くは叱れないのだろう。
少し目を離した隙に、隊長はおかわりをねだる部下たちに囲まれていた。
「お前は三個目だろう、もうやらんぞ」
「隊長、俺もおかわりいいですか?」
「私ももうひとつ欲しいです」
わいわいと賑々しいやり取りを見て頬が緩んだ。
美味そうに食べる部下たちに釣られて手掴みで食べてみたくなって、隊長からひとつもらった。少し冷めたシナモンロールは、魅惑的な甘い香りを放っていた。大きく口を開けて、丸々と膨らんだ生地に噛み付いてみる。外側の生地がサクッと軽い音を立てた。冷めていても生地は柔らかかった。
――美味い。
そういえば、子供のころに兄弟でパイを食べた時も、こんな風に手掴みで頬張ったっけ……。一切れのパイを食べきることができなくて、兄者と半分に分けて食べたこともあった。口の周りにジャムがついたら、デスパー兄が拭ってくれた。
懐かしい思い出を振り返りながら口一杯に詰め込んで咀嚼していると、空になった籠を小脇に抱え、片手にシナモンロールを持った隊長がそばに寄って来て、オレを見て小さく唸った。
「団長、その、申し上げにくいのですが……髭に……」
隊長は大柄な身体を屈めるようにして距離を詰めてきた。彼らしくない囁き声に、首を傾げて言葉の続きを催促する。
「髭に、ついています。シナモンロールの砂糖衣が」
「……、っ、すまない……!」
かあっと顔が熱くなった。声を顰めて指摘してくれた隊長に感謝しなければならない。子供でもあるまいし、みっともない……。
「ありがとう、助かった」
手の甲で荒っぽく蓄えはじめたばかりの口髭を擦る。
「取れました」
隊長はうんうんと何度か頷き、丸めていた背中を伸ばして、手にしたシナモンロールを見た。
「団長が夢中になるほど美味ですか、この、シナモンロールというものは」
「王や兄上も気に入るほど美味いぞ。それにしても、部下たちがこんなに喜ぶとは思わなかった」
「ええ。料理長に礼を言おうと思います」
「そうだな。オレも行くよ」
隊長と並んで部下たちを眺める。皆子供のように笑っている。
砂糖のような甘い幸福感は、焼きたての生地から立ち上るバターとシナモンの香りのように、胸を満たしていった。