冥府には巨大な地底湖がある。
城からも近く、湖畔で兄たちと遊ぶのが最近のお気に入りだ。
護衛の騎士の馬に揺られながら、高くなった目線で見る湖はどこまでも青々と澄んでいて美しい。原っぱを駆け、摘んだ野苺を食べ、寝転んで地底の天井である白い岩盤から下がる、いくつもの石のつららを見詰めてうとうとするのが好きだ。
時々裸足になって水遊びをするが、濡れて帰ると父上に怒られるから、めったにやらない。
「地上にはこれより大きな湖があるのでしょうか」
摘んだばかりの瑞々しい野苺を頬張りながら呟くと、凪いだ水面に向けて石を投げていた兄ふたりがこちらを向いたあと、顔を見合わせた。
「これほど大きな湖があるかはわかりませんが、地上には海があります」
「うみ? うみって、なんですか?」
はじめて聞いた言葉に首を傾げる。デスパー兄は手の中の平べったい石を見詰めて、ちょっと悩んだよう唸って瞬きをしてから僕の方を見た。
「海というのは、海水という塩水で満たされた水圏のことです。この地底湖の何百倍、何千倍と大きくて、深いんですよ」
「海のことを知りたいのなら、学匠に訊いてみるといい。書物を貸してくれるだろう。もしかしたら、海を見たことがある者もいるかもしれないな」
デスハー兄さんの言う通り、城に戻って、すぐに馴染みの学匠の部屋に行った。
「うみについて書かれた書物はありますか?」
真っ白な長い髭を蓄えた学匠は、瞼の垂れた小さな目を瞬かせて「ございますぞ。書物よりいいものもございます」と、部屋に入れてくれた。室内は埃と古い書物のにおいがした。
「こちらです」
学匠が見せてくれたのは、白い砂の入った小瓶と、茶色と白のまだら模様の、図鑑でしか見たことがない大きな巻貝だった。貝殻は膨らんだ円錐形をしていて、最も分厚い部分では、広げた扇子のように開いた口があり、口の片側が内側に向けて丸まっている。
「これは?」
「昔私が海で採取した海の砂と法螺貝です。法螺貝は耳に当てると波の音がすると申します。ご興味がおありなら、オウケン様に差し上げます」
「いいの? ありがとう!」
学匠は他にも、うみについて書かれた書物を貸してくれた。
嬉しくて、部屋に戻って寝台に寝転んで夕食の時間まで読みふけったが、果てのないうみというものを想像するのは難しかった。
潮の香りとはどんなものなのだろう?
カモメという海鳥はどんな声で鳴くのだろう?
押しては引いていく波の音というのはどんな音なのだろう?
シーツの上に転がって、細かな白砂が入った小瓶を天井に翳して傾けてみる。なんだかきらきらして見える。
起き上がって、瓶のコルク栓を外して中身を掌に出してみた。砂はさらさらとしていた。
今、うみの一部に触れている……。
小さな興奮が胸の内側で弾けた。
砂を零さないよう慎重に瓶に戻し、コルク栓をきっちりと締めて、今度は法螺貝を耳に当ててみる。耳を澄ますと、こもったような低く鈍い、ごうごうという音が響いていた。これが波の音なのだろうか。
法螺貝を抱えて部屋を出て、デスパー兄の部屋まで走った。
兄に学匠から聞いたことをそのまま伝えると、兄はすぐに法螺貝を耳に押し当てた。
「聞こえますか、波の音」
「うーん、わかりません。私も実際には海を見たことはありませんし……」
「うみを見てみたいです」
「海は遠い場所にありますから、難しいかもしれませんよ。でも、あなたが大きくなったら、見に行けるかもしれませんね」
「その時は、兄さんたちも一緒に行きましょう」
「そうですね。いずれ、きっと行けますよ」
デスパー兄は微笑んで、頭を撫でてくれた。
「デスハー兄さんにも法螺貝を見せてきます」
兄の部屋を出て、法螺貝を抱きかかえて廊下を駆けた。
デスハー兄さんは部屋にいた。
「兄さん、あのね」
学匠から本を借りたことや、法螺貝のことを話す。兄は穏やかな笑みを浮かべて話を聞いてくれた。
そして、いつか一緒にうみに行こうと伝えると、デスパー兄と同じく「お前が大きくなったらな」と言って頭を撫でてくれた。
未知なる潮騒の調べは胸を熱くさせた。
大人になったら、僕たちはうみに行く。
先のことなんてどうなるかわからないけど、大好きな兄さんたちと一緒なら、いままでそうだったように、なんでもできる気がするのだ。