縹渺たる世界の平等な命

 人は生まれながらにして平等だと母が言っていた。

 もしそれがほんとうなら、母は流行病で早死にすることもなかっただろうし、父も弟たちも王に首を刎ねられることもなかっただろう。

 それに、きっとデスハー様やデスパー様も、オウケン様と同じく父君から愛されて育ったに違いない。そうなっていたら、玉座を巡るこの戦もきっと起きなかったかもしれない。

 もし人が平等であったら――否、玉座に座しているのは神であるから、そもそも我々人間に平等も不平等もないのかもしれない。

 人は生まれながらにして不平等だ。私はそのことに気付くのが遅かった。

 サトゥン王が打ち込んだ恐怖という名の楔によって、地の底は怨嗟に満ちている。果てのない恨み辛みを一身に背負い、民のために、デスハー様と弟君たちは王に叛旗を翻した。

 戦況は我々が不利だった。城は陥落寸前だった。王が雇ったギガンテス軍は皆火炙りにされ、城の前に陣を構えていた我々も城内に撤退せざるを得なかった。味方はもう数えるほどしかいない。斥候からの情報は、戦意を削ぐものばかりだった。籠城戦に持ち込むにしろ食糧はない。兵力差は一目瞭然だ。

 王は決して引くな、最期まで戦えと我々に命じた。

 己に王への忠誠心があったなら、命など喜んで差し出していた。

 だが私が見ていたのはサトゥン王ではなく、デスハー様の背中だった。いつしかデスハー様を王として戴きたいと思っていた。騏鼓の間に相見ゆ事などしたくなかった。

 あの方は昔から心根のお優しいお方だった。目を閉じれば様々な思い出が蘇ってくる。瞼の裏に浮かんだ記憶の断片は、父母や兄弟との思い出よりも私の胸を熱くさせる。

 門が突破されたと、誰かが叫んだ。

 動揺は瞬く間に広がり、残っている兵たちの士気を下げていったが、この広間の先は玉座の間であるから、冥府騎士団員の務めとして、死守しなくてはならない。

 金属製の両開きの扉が開いて、大柄なシルエットが飛び込んできた。デスハー様とオウケン様だった。

「命を投げ出すな、降れっ」

 デスハー様の声が広間に轟いた。空気を震わせる一喝だった。

「降るわけには参りません」

 誰かが剣を放り出す前に静寂を絶ち、佩いていた剣の鯉口を切る。

「その声、軍団長か」オウケン様の鋭い視線が私を射抜いた。「あなたのような人が父のために命を投げ出す必要はない」

「いいえ。私には責任があります。冥府騎士団としての責任が。あなた方を討たねばならない」

 抜いた剣の切っ先を向けると、デスハー様が一歩進み出た。

「オウケン、下がっていろ」

「……しかし……兄者」

「私がやる。やるべきなのだ」

 デスハー様は担いでいた金棒をオウケン様に預けると、代わりに剣を受け取り、前へ進み出た。

 まだデスハー様が幼かった頃、剣術の指南をしたことがある。振るう剣に武術の才と勇ましさを見た。

「来い」

 デスハー様が剣を抜いた。

 一定の距離を置いて向かい合う。噛み締めた歯の隙間から空気を吸い、踏み出した。振り下ろした刃が空気を裂いた。デスハー様は刃を寝かせて受け止めた。

 一合二合と打ち合い、離れ、斬りかかるも躱される。デスハー様の重い一振りを受け流すと、擦れた刃の間で火花が散った。

 渾身の力を込めて突きを出した時、デスハー様は目にも留まらぬ速さで下から上に剣を振り上げた。弾かれた衝撃で私の剣が中程で折れ、放り出された刃が弧を描いて天井に向けて飛んでいった。デスハー様の構えが、薙ぎ払いから突きの構えに変じる。

 烈戦の幕引きは一瞬だった。銀の刃が甲冑を貫いて胸を穿って、喉の奥から鉄臭い熱い液体が込み上げてきた。

 人は生まれながらにして平等だと剣の師は言っていた。

 もしそれがほんとうなら、母はオウケンを産んだあとに産後の肥立ちが悪く死ぬことはなかっただろうし、冥府の民たちも父に殺されることはなかっただろう。

 冥府の民たちが幸福であったのなら、父を討とうとは思わなかったかもしれない。

 もし人が平等であったのなら――否、人は生まれながらにして不平等だ。その差を少しでも減らし、泰平の世を築き、秩序と安寧を保ち、民を尊ぶのが王の務めである。己の欲のために民を苦しめる王は、王ではない。

――人は生まれながらにして平等なのです。

 かつて己にそう説いた男は、頑なに降伏を拒んだ。降伏してほしかった。人も神も、命だけは平等なのだから。

 厚い鋼鉄の鎧を貫き、肉を斬り、骨を断つ感触が掌に伝わってきた。剣を抜くと、彼は膝から崩れ、両手を突いた。兜の隙間から大量の血が滴り落ちて、床に溜まりを作った。

「デスハー、様」

 彼は震える手で兜を外した。かつての精悍な面影のないすっかり憔悴としたかんばせには驚いた。老将は吐血し、喘ぎながら続けた。

「部下の、助命を願いたい」

「そのつもりだ」

 剣をおさめ、彼を見下ろす。もう、彼は助からないだろう。

「デスハー様、どうか、冥府を」

 縋るように手を握られる。彼は小さく息を吸うと、どうっと横に倒れた。それから、もう動くことはなかった。

「もう十分だろう、城内に残っている者は私に降れっ」

 声を張り上げると、息を潜めて控えていた騎士たちが一斉に手にしていた武器を投げ出した。

 革命はその後、父を討ったことで成し遂げられた。

 屍山血河の戦を決して忘れてはならない。これからは、人も魔族も、誰もが平等となるような国を作らななければならない。私にはその責任がある。

「……人は生まれながらにして平等、か」

 玉座に腰を下ろし、目を閉じてぽつりと呟くと、かつての師の背中が瞼の裏に浮かんだ。

 縹渺とした記憶の中の彼の背中は、とても大きく見えた。