サーベラスの尾は踏むな

 街外れの西の森に、人を喰らう凶悪な狼が出るという報せが城に届いた。

 木こりや炭坑夫が犠牲になっているという。人の味を覚えた獣は、やがて獲物を求めて街にも現れるようになるだろう。

 被害報告を受けた翌日、王より騎士団に狼討伐の命が下った。

 隊長と精鋭を連れて森を訪うと、異質な静けさに迎えられた。鳥や虫ですら、狼に恐れをなして逃げ出したように思えた。

 森の中をくまなく捜索し、足跡やふんといった痕跡を辿った。狼を見付けたのは、日の傾いたころだった。

 切り立った岩場に、狼は現れた。逆光に翳ったシルエットは恐ろしく巨大で、それは狼というよりも、マンティコアのようだった。

「なんて大きさだ」

 うしろで誰かが言った。部下たちが狼を見て慄くのがわかった。

「臆するな。相手は獣だ。弓兵は矢をつがえろ」

 狼は巨躯を翻すと一度姿を消した。

 横の茂みから銀色の影が躍り出て、部下がひとり地面に倒された。狼は唸り声を上げながら部下の首に食らいつき、めちゃくちゃに頭を振った。咄嗟に剣を抜いて斬りかかると、狼は飛び上がって一振りを躱し、距離を置いて着地した。

 狼の顔の半分には、焼け爛れたような痕があった。片耳は焼け落ち、片目は潰れ、皮膚を無くした赤黒い口の端からは涎が滴り落ちている。

「矢を放て!」

 狼が動きを止めた隙に叫ぶ。弓兵が矢を放ったが、狼はそれをジグザグに走り抜けて躱した。俊敏さだけでなく、狼には知恵がある。一度痛い目に遭った獣というのは、狡賢くなるものだ。

「団長をお護りしろ!」

 隊長の一声で、斧槍を手に部下たちが左右に展開する。

「下がれ、オレがやる」

「団長?」

「盾を」

 兜の面頬を下ろして、真横にいた部下から盾を受け取り、牙を剥き出しにする狼と対峙する。狼は突進してきた。盾で受け流し、地面に叩きつけると、狼はすぐに起き上がり、けたたましく吠えながら飛び掛かってきた。

「オウケン様を援護しなくては……」

「ダメだ、撃つな、あれでは団長にも矢があたる!」

 理性のない獣は恐れというものを知らないが、狼の猛攻を盾で受け流すだけでは状況は変わらない。四肢の先を一突き二突きしたところで狼の闘志が消えるわけもない。弱肉強食が常である自然界では、生きるか、死ぬかなのだ。

 ぐおおうと吠えた狼が音もなく跳躍し、再び飛び掛かってきた。狼の鋭い爪が、血に飢えた牙が、頭上から迫る。盾を投げ捨て、剣の柄を両手で握り、身体を屈めた。一刹那、頭があった位置に狼の息遣いを感じた。

「ふんっ!」歯を食い縛って、垂直に構えた剣を突き上げて、狼の下顎を突き刺した。「ぬ、お、お、おおおおおお!」

 両足を踏ん張り、被さってきた狼の勢いに任せて剣を振り下ろす。渾身の力を込めて顎から腹まで切り裂いた。おびただしい量の血と、しなやかな筋肉の内側に詰まっていた臓物が降り注ぐ。のしかかる百五十キログラムはゆうにありそうな身体から、ふっと力が抜けたのがわかった。

 狼の下敷きにならないように肩で下肢を受け止める。足元には、湯気を立てた臓物が血溜まりに転がっている。

「ぐっ、う……」

 濃い血の臭気は兜の内側にも流れ込み、肺を満たした。視孔から入り込んだ血が、顎の先から滴り落ちている。

 狼の身体を投げ出し、腹に突き刺さったままの剣を抜く。剣も鎧も血まみれだ。

「……お見事です……」

 呆気に取られた部下たちの声に、ようやく大きく息を吐き出す。振り返ると、先程狼に噛み付かれていた部下が起き上がっていた。兜と鎧がなければ死んでいただろう。

 血溜まりの中で事切れた狼を一瞥する。隻眼が見開かれ、琥珀色の眸が濁りはじめていた。

これで、冥府の民の安全を脅かす獣は討たれた。

「団長、あれを……」

 隊長が近くの茂みを指差した。それに倣って茂みを見やると、灰色の毛玉が――よく見たらそれは小さな小さな狼だった――あった。

 たった今仕留めた狼が雌だったのだと気付く。毛玉は全部で三つだった。灰色がふたつと、黒がひとつ。三匹の子はおそるおそるといった様子で茂みから出てくると、座り込んですぴすぴと鼻を鳴らした。おそらくまだ乳飲み子だ。

 剣をおさめてそばに寄る。狼の子供たちは逃げない。身を寄せ合い、和毛を押し付けあって、固まっている。

 生きる術を持たない獣の子が生き残れるとは思っていない。辺りの木々には血の臭いを嗅ぎつけたカラスが集まりはじめ、はやく屍をつつかせろと鳴いている。この三匹の子は、あっという間に他の獣の糧になるだろう。そうなる前に、いっそ楽にしてやったほうがいい。この狼たちの母親を殺したのはオレだ。

 オレには責任がある。デスハー兄上もきっとそうする。母親と一緒に弔ってやろう。

「苦しませないようにする。すまない」

 剣の鯉口を切り、剣身を抜いた。狼たちは母親と同じ琥珀色の無垢な眸でオレを見上げている。

「団長、お待ちください」隊長が隣に立った。「狼というのは、掟を尊び、愛情深く、忠誠心が強いといいます。それに三匹います。あなたのご兄弟と同じ数だ。これはなにかの縁だとは思いませんか?」

「それは……言われてみれば確かに……」

 狼たちを見る。彼らは短く太い前足を揃えて呑気にあくびをすると、ころころとした身体を弾ませてじゃれあいはじめた。

「それで、連れて帰ってきたのか」

 王は私の腕に抱かれた三匹の狼の子をまじまじと見据え、太腿の上で頬杖を突いた。視線には一握の好奇心が混じっていた。

 ずっと抱かれているのに飽きたのか、一番大きい狼が身体をくねらせて暴れた。こら、と小声で叱りつけると、不満そうに鼻を鳴らした。

「私が面倒を見ます」

 狼の子は、いつの間にか一匹だけ腕の中で眠ってしまっている。

「そうか。ならばしっかり躾けろ。手懐けたら、番犬にでもしよう」

「はい」

 狼たちを抱え直す。顎を舐められた。

 狼たちはよく懐き、日に日に大きく育っていった。

 彼らは仲睦まじく、気高く、賢かった。狩りに出掛けた時は三位一体の連携を見せてくれた。彼らはなにをするにも三匹一緒だった。狼のくせに甘いものが好きで、蜂蜜と小麦を混ぜた焼き菓子を与えると喜んで食べた。

 彼らは中庭や城内よりも、城の入口を好んだ。故に、時に謁見に訪れた領主や冥府を訪った使節を威嚇し、驚かせることもあった。追い返したこともあった。

そのせいか「冥府には三叉の首を持つ恐ろしい番犬がいる」と尾鰭のついた噂が地上に巷説として広がった。

「いい番犬になったじゃないか」

 王は満悦そうに言い、玉座の横で寛ぐ狼たちの頭を撫でた。狼たちはうっとりと目を細めると、身体を横たえて眠りついた。