地上には海がある。
広大で深々とした海には、この世で最も巨大な生物である鯨がいるという。
私は海も大海原を悠々と泳ぐ鯨も見たことはないが、鯨のことは知っている。幼いころに書物で読んだことがある。
群れを成し、普段は潜水していて、時々海面に浮上しては、背中から海水を噴き上げる――知っているのはその程度だ。
いつか兄者たちと海に行ったら、鯨を見ることができるだろうかと子供心に期待したこともあったが、やはり、海というのは書物の中だけの存在だった。
海への憧れが消え失せて久しいが、ティータイム中に、デスパー兄が白鯨の話題を切り出した。
三十年ほど前に北の海で発見された巨鯨は、数々の捕鯨船を沈め、船乗りたちの間で脅威となっていた。或る時、白鯨は名うての船長の乗る捕鯨船に体当たりをして、船長の片足を食いちぎって蒼海に消えた。怒り狂った船長は、白き鯨に復讐をしようと長きに渡り追い続けていたが、半年ほど前、激闘の末に、砕け散った船と多くの水夫と一緒に昏い海の底に沈んだという。
幸いにも生き残った者がいて、彼の証言は瞬く間に北の領土に広がり、今では死んでいった仲間たちや義足の船長の敵討ちとして白鯨を仕留めようと、多くの船乗りたちが出航しているらしい。
「弔い合戦の相手は鯨ですよ。信じられます?」
淹れたての紅茶を啜りながら兄が言う。
「相手がなんであれ、復讐なんてするものではないですよ」
「そうでしょうか。足を奪われ、報復したいと思うのは、当然のように思えますが」
兄はぱっちりとした目を丸くさせた。「オウケン」長く量の多い睫毛の間で眸が鋭く細まる。「そんな子に育てた覚えはありませんよ」
苦笑いをして身じろぎする。「すみません」
「よく『目には目を』と言いますが、そんなことを望めば復讐心によって憎悪の炎に内側から灼かれてしまいます。それに、暴力ではなにも解決しません。暴力は新たな犠牲を出してしまう。それこそ負の連鎖になってしまいます。相手と向き合い、互いを理解し、赦し赦されることではじめて対話になります」兄はまた一口紅茶を飲んだ。「綺麗事かもしれませんが、私は性善説を信じています」
なにも言わずに曖昧に微笑して、兄に倣って紅茶を啜る。蜂蜜の甘さが舌の上で広がった。
もしも、己の大切なもの――身体の一部であれ、物であれ、人であれ――が奪われたら、己は赦すことができるだろうか。叩っ斬ってしまいたい衝動を抑えることができるだろうか。人の善性を信じることができるだろうか。
たとえば、大切な兄者が、我が王が奪われたら……。
頭の中が真っ白になって、ティーカップに視線を留めたまま、気が付けば立ち上がっていた。ハッとして弾かれたように顔を上げると、口をぽかんと開けている兄と目が合った。
「どうしました?」
「いえ、なんでもありません」
冷静を取り繕って腰を下ろす。勢い余って椅子から立ち上がったせいで、テーブルに紅茶が少し溢れていた。
懐中からハンカチを取り出して紅茶の溜まりを拭き取る。
相手が鯨であれ人であれ、王を失うことになったら、奪った者を地の果てまでも追い掛け、追い詰め、斬るだろう。断固として赦すことはできない。
「ごめんね、兄さん」
ハンカチをしまい、ふっと笑って言う。
「いいですよ」
兄はティーカップを受皿に戻した。
「紅茶を溢すくらい、なんともないです」