安息の火

 残虐非道の限りを尽くしていた父を先の戦で討ち滅ぼし、兄者が玉座に就いてから、様々な革新がもたらされた。

 兄者はまず、餓えていた民に施しをした。そして民の生活を支える施設や設備の建造、整備を命じ、法を制定し、人々の営みの礎を築き上げた。

 父に生殺与奪の権を握られた人間たちで編成されていた騎士団は、先の戦争で弱体化していたが、兄者の統率力と私の指揮によって立て直され、規律を重んじる高潔な堅甲利兵な軍隊へと生まれ変わり、今や世界に名を轟かせている。

 父に蔑ろにされていた、冶金、金属を原料とした鍛造加工や、蝋燭の製造、建築といった技術は目覚ましく発展した。経済成長を遂げた冥府は、豊かで、平和で、盤石な大国となった。

 父を討つと決意した兄者が胸に宿した勇気の灯火からすべてがはじまったのだ。

 火が冥府を変えたのだ。

 地の底にある冥府には陽の光は届かないが、この国では、昼であろうと夜であろうと燈が絶えない。文明の象徴ともいえる火が国を支えている。冥府にとって火というのは恵みであり、安寧の証でもあった。

 火は茫洋とした暗闇を照らすだけでなく、冷えた身体をあたためてくれる。

 私は火の色が好きだ。

 猛々しくうねる様を見るのが好きだ。

 そして、暖炉の前に寄せた椅子に腰掛けて、燃え盛る火を見詰めながら、兄者と穏やかな一日の終わりを迎えるこの時間が好きだ。今夜も、なにをするわけもなく、椅子を並べて、ただ火を眺めている。

 ひねもす多忙な王にとって、私室で王冠を脱いでひとりの男に戻れるこの時が、心が休まるひとときであることを知っている。静かな夜を最愛の人と共に過ごせることが、私にとってのささやかな幸福でもあった。

「地上では、今の季節は雪が降ると聞く」

 者が思い出したように呟いた。暖炉から意識を隣にずらす。

「雪、ですか」

「ああ、雪だ」肘掛けに頬杖を突いていた兄者は、いつの間にか頬杖を崩してこちらを向いていた。白い顔が半分火に赤々と照らされ、もう半分は濃い陰影で翳っている。「お前は見たことがないだろう?」

「はい。書物で読んだことがある程度です。雪とは、空から降り注ぐ氷の結晶のことですよね。地上では、常に雪に覆われている国もあるとか」

「雪というのはおそろしく冷たい。オレは嫌いだが、近々、ランキング上位七カ国会議がある。招聘に応じるため、否でも応でも北国に行かなくてはならない」

 兄者は再び暖炉へ顔を向けた。

「北国は遠いな。護衛は任せる」

「北国への遠征ははじめてです」

「毛皮の外套が必要になるぞ」

「出立の日までに用意します」

 見たことのない雪の冷たさがどれくらいのものなのかわからなかったが、明日、早速外套をオーダーしなくてはならない。

「兄者とこんな風に過ごすことも、しばらくはできなくなるのですね」

 切なさが胸を刺した。いつも夜が更けると闇に紛れて自室に戻るが、今夜くらいは朝までそばにいたいと思うのは、我儘だろうか。

 視線をふいと暖炉へ逸らす。火の勢いが少し弱まっている。薪を足さなくてはならない。

「オウケン」

 一拍置いて名を呼ばれた。ゆっくりと首を巡らせると、兄者の手が伸びてきて頬に触れた。昔と同じ大きな掌は安息に似つかわしい柔らかな熱を帯びていた。兄者に触れられるのが嬉しくて、愛おしくて、頬を押し付けて目を細める。私はどうしようもないくらい、兄者のことが好きだ……。

「今夜は、ここにいるといい」

 魅惑的な囁きに小さく頷き、兄者の手の甲に自身の手を被せる。視線が重なって、甘い潜熱がじわじわと胸を焦がしていった。

 暖炉の火がいつの間にか勢いを取り戻していた。

 満たされたふたりだけの夜が、ゆるやかに深まっていく。