愛おしさで夜を包んで

 弟が産まれてから、母上はずっと弟に付きっきりだった。

 その日学匠に教わった学問のことや、得た知識を話しても、難しい学術書を読んでみても、母上は前みたいに褒めてくれなくなった。今忙しいのと言って、泣く弟をあやすばかりだ。

「デスパー、あなたはお兄ちゃんなのよ。オウケンを可愛がってあげてね」

 母上はそう言って綺麗に笑った。膝には乗せてくれない。母上の腕の中には、いつだって生後間もない弟がいる。

 兄になるということは、こんなにも寂しいことだったのかと拳を強く握り締めて部屋を飛び出した。目に涙が湧いて、前腕でごしごしと目元を荒っぽく擦る。男は泣くものではない。泣いたらいけないのだけれど、涙は次から次に溢れてくる。

 兄者も、僕が産まれた時はこんな気持ちを味わったのだろうか。

 廊下の途中で足を止める。兄者に会いたくなって、剣術の稽古をしている中庭に向けて走り出した。

 兄者は剣術師範と打ち合いをしていた。鍛錬用の剣が一合二合とぶつかり合っては離れ、鈍い剣戟を響かせていた。僕も早く剣術の鍛錬ができるようになりたい。もっと大きくなったら、兄者みたいになれるだろうか。

 稽古が終わるまで、中庭の端に立って様子を眺めていた。

 稽古が終わると、兄者は「どうした」と、額に汗を浮かべたまま、そばにきてくれた。

「兄者は、僕が産まれてから、母上を独占されて寂しい思いをしましたか?」

 唐突な問いかけに、兄者は幅広の唇を真一文字に引き結んで目を瞬かせた。

「寂しいと思ったことはない」

 その答えが意外で、今度は僕が瞬きをする番だった。

「お前が産まれて嬉しかった。寂しくなんてなかった。兄として弟のそばにいられることが誇らしかったさ。お前のことはオレが護ると誓ったんだ」

 兄者は口の端を持ち上げると、僕の頬を両方とも摘んできた。兄者の手は、肉刺と剣胼胝だらけだ。僕は兄者のこの手が大好きだ。優しくて、大きくて、誰よりもかっこいい手。

「兄者は、僕のことを好きでいてくれますか?」

「当たり前だろう。お前のことを愛しているとも。デスパー、お前さてはオウケンに妬いているのか? まだ赤子だぞ」

「……妬いてなんか、ないです」

「そうか?」

「ほんとうですよ」

 頬から手が離れて、頭を荒っぽく撫でられた。整えていた髪が乱れたが、構わなかった。それから、兄者は僕を軽々と抱き上げた。目線がぐっと高くなった。

 兄者の胸に身体を押し付けるようにして寄り掛かる。

「食堂に行こう。ティータイムだ。今日は料理長がお前の好きなレモンパイを焼いてくれている」

 レモンパイは大好きだ。けれど今は、それ以上に、兄者の腕の中にいることが嬉しい。

 身体を密着させ、小さな手を兄者の首のうしろに引っ掛けて肩口に顔を伏せると、兄者が髪につけている香油の甘いにおいに混ざって、生き生きとした汗のにおいが鼻先を擽った。

 兄者が歩き出して、一歩一歩進むごとに、心地いい振動が伝わってくる。

「兄者」

「ん?」

「僕も兄者のことが大好きです。だから、大きくなっても、兄者のことをずっと好きでいます」

 稽古を終えたばかりの兄者の上気した頬に尖らせた唇を軽く押し付ける。

 親愛の口付けのあと、見詰め合っていると、兄者が穏やかに微笑んだ。名前を呼ばれ、長い指と分厚い掌に後頭部を撫でられた。

「愛していますよ、兄者」

 節くれ立った白い手の甲に口付けを落とし、レモンパイのような甘く爽やかな愛の言葉を囁いてみる。

 フン、と鼻を鳴らして顔を逸らした兄者の耳は赤くなった。

 私は、幼く無邪気だった自分に今でも感謝している。おかげで、兄者にこうして夜な夜な愛の言葉を紡げるのだ。

 手の甲へのキスでは物足りなくなった。ヘッドボードに寄りかかる兄者の両足を挟み込んで乗り上げ、頬に触れる。唇を塞ごうと距離を詰めると、兄者は瞼を下ろし、きつく瞑った。

「デス、パー……」

 シーツを握る兄者の手に力がこもって、さらにシワが寄った。初々しい反応が可愛らしい。

うなじに手を回し、キスをする。

「デスパー」

 触れるだけの口付けのあと、また名を呼ばれた。

 愛おしさが込み上げてきて、兄者の太い首の付け根に鼻先を埋めると、髪に付けている香油の香りがふわりと漂った。

 あのころとは違って、焼きたてのレモンパイも、砂糖とミルクのたっぷり入った紅茶もないけれど、私たちは、これからふたりで杳とした夜を食らうのだ。