はるか昔、西の王国に、閨で一夜に一話ずつ、王に古今東西に伝わる様々な物語を語り聞かせる女がいたという。
語り聞かせは千夜にも及び、女と千の夜を過ごした王は女を娶り、正妻として迎えた。ふたりの愛の物語は砂漠を越え、海を越え、時代を経て語り継がれ、王国が滅んだ今もなお絶大な人気を誇っている。
「千夜にも及ぶ語り聞かせですよ。私なら途中で語る話も尽きてしまいます」
もうすっかり自分の寝所のように慣れた王の寝所は、焚いたばかりの香の匂いが漂いはじめていた。今夜は、砂漠にある国でしか取れない貴重なものを焚いた。なんの変哲もない、いつも通りの夜だったが、なんとなく、特別な気分になりたかったのだ。
ヘッドボードに寄り掛かったまま香炉から細く立ち上る煙を見据えていると、隣で寝そべって肘枕をしていた兄者が「そもそも誰に語り聞かせるんだ」と訊ねてきた。
「それはもちろん、あなたにですよ」
意識を香炉から横に移すと、兄者は肘枕をしたまま両眉を持ち上げ、丸い目を瞬かせた。「意外だ」とでもいいたげな表情だった。珍しくわかりやすい反応に頬が緩んだ。寝室でふたりきりの時、兄者は王ではなく、こうしてただのひとりの男としての顔を見せることがある。それが言葉にならぬほど愛おしい。
視線は上と下で重なったまま外れない。先に口を開いたのは兄者だった。
「ならば、なにか聞かせてみろ」
「……そうですねえ、なにがいいでしょう……ああ、では、商人とイフリートの話でもしましょうか」
腹まで寄せた上掛けの上で手を組んで、幼いころに読んだ物語の断片を記憶の泉から掬い上げた。
語り聞かせている間、兄者は目を閉じて身じろぎひとつせず、黙って私の話に耳を傾けていた。
「……今夜は、ここまでにしましょうか」
物語の主人公である商人の妻が魔法でカモシカに変えられたところまで話し終えると、兄者の下りていた瞼が持ち上がった。
「中々面白いな。たしかに、続きが気になる」眠たげに目を細め、兄者はゆっくりと仰向けになり「ほどよく眠気もくる。悪くない」再び目を閉じた。
「お気に召したのなら、よかった」
室内は芳香に満ちていた。重たくも深い甘い香りは、多忙極まりない王に安息を与えていた。
柔らかな眠気に肩を叩かれて、兄に倣って体温の染みたシーツに横たわる。ブランケットと上掛けの重さすら心地いい。眠気を受け容れてうとうとしはじめると、静かな寝息が聞こえてきた。
「どうか、いい夢を」
あなたとこんな穏やかな夜を幾日も過ごせたらいい。
私はあなたと千夜を過ごしたい。