「兄者、私は、」
酔った勢いで言いかけた言葉を飲み込んで、唇を引き結び、テーブルの下で、膝に置いた手を強く握り締める。
言ってはいけない。そんなことをわかっている。それでも、視線を正面に座す兄から外せない。
私は兄者を慕っている。この想いは弟としての親愛ではない。私は愛しているのだ、兄者を。ひとりの男として。いつからそうなったのかはよく覚えていない。たしかにこの胸にあったはずの兄者に対する親しみはいつしか曖昧となり、思慕の種子は芽吹き、恋という蕾を膨らませ、愛という名の花を咲かせてしまった。
今はもう、私は兄者のことしか見えていない。私には、兄者だけなのだ。あなただけなのだ。
「デスパー?」
言葉の続きを促すように、兄はゆっくりと目を瞬かせながら首を傾けた。
今夜兄と飲み交わす北国産のワインは、私の身体や心を熱くさせるには十分だった。
それでも――言えるわけがないのだ。だって、私が愛しているのは、実の兄なのだから。
「なんでもありません。少し、飲みすぎてしまいました」
近親者を好いてしまったという罪悪感は、ナプキンについた赤ワインのように、私の心の深くまで染み付いている。
もうすぐ子が産まれると、そう嬉しそうに語っていた騎士が死んだ。
病だった。あっという間に症状が悪化し、家族の元に戻る日の未明に息を引き取った。彼の最期の言葉は、伴侶とこれから産まれてくる子供への謝罪と愛の言葉だったという。
――人はいつ死ぬかわからない。
彼の亡骸の入った棺桶が運ばれていくのを、呆然と立ち尽くして視線で追いながら、得体の知れない恐怖と漠然とした不安に襲われた。
私はいつ死ぬのだろう。私が最期に残す言葉はなんだろう。その言葉を伝えたい相手は誰だろう……。
真っ先に浮かんだのは兄者の顔だった。兄者に、なにを伝えるというのか。
厭味。違う。私はそんな酷い捻くれ者ではない。
感謝。違う。私はそこまで兄者に素直ではない。
謝罪。違う。私は最期くらいは笑って逝きたい。
あなたを愛している。兄者には、そう伝えたい。
いや、人はいつ死ぬかわからないのだ。たとえば、明日不慮の事故で死ぬかもしれない。そうなってからでは遅い。死んでから後悔するなんてまっぴらごめんだ。
夜の真ん中、気が付けば兄者の寝所に向かっていた。
兄者は「どうした、こんな時間に」と言いながらもドアを開けてくれた。兄者は寝衣姿だった。
「兄者に、どうしても伝えたいことがあるのです」
早足で歩いたせいか、息が少し弾んでいた。それほどまでに、私は逸り、衝動的になっていた。
「入れ」
兄者の寝所は、香を焚いていたのか、柔らかな、しかし深みのある甘い香りがした。
窓際の椅子に、テーブルを挟んで腰掛けた。呼吸が落ち着いてきて、不思議と気持ちも凪いできた。
「それで、なんだ?」
兄者は神妙な面持ちで私を見た。
「こんなことを言われて驚くかもしれませんが、私は、以前から、兄者のことを慕っています。弟としてではありません。この気持ちは紛れもない思慕です」
兄者は呆れたように半眼で「デスパーお前、オレをからかうのはよせ」言った。
「いえ、からかってなんていません。これは告白です」
テーブルに置いた拳に力を込める。
「兄者、私は、あなたを愛しています。心の底から。誰よりも」
ずっと胸の奥に止まっていた繊細な気持ちが羽ばたいた。
「この気持ちは墓場まで持っていくつもりでしたが、もし明日突然死ぬかもしれないと思うと、怖くなったんです。死に際ですらあなたにほんとうの気持ちを伝えることもできずに、冷たい墓石の下で後悔するなんて、絶対に嫌なんです。その前に、気持ちだけはどうしても伝えておきたい」
兄者は眉ひとつ動かさず私を見据えている。
「静寂を味わうのは墓に入ってからでいい。私はそれまで、愛の言葉を紡いでいたいのです」
兄者の黒黒とした眸の中で、テーブルの上の燭台の先に灯る火が躍っている。
「愛しているのです、あなたのことを」
告白しておいて、目に涙が湧いた。俯いて、歯を食い縛る。
沈黙が降り注いだ。
フラれてもよかった。否、男同士で、兄弟なのだから、それが正しいのだ。兄者はいつだって厳正で正しい判断ができる人だ。けれど弟には甘いから、きっと私のことを慮って優しく諭してくれるだろう。そして、私は納得したフリをして自室に戻り、生涯の愛の終わりに打ちのめされるのだ。
「デスパー」
沈黙が兄者の静かな声で弾けた。「はい」鼻を啜って顔を上げる。
「決してオレより先に死ぬな。そう誓うのであれば、オレのそばにいろ」
「……それって……」
兄者はいつもこんな言い方をする。私らしくないが、理解するのに時間が掛かった。
心臓が機嫌の悪い時の白王の後ろ脚のように跳ね上がり、かっと身体が火照る。目の端からほろりと涙が零れて、下睫毛に絡んだ。
「う――受け容れてくれるんですか、私を」
「お前の減らず口を閉じることができるのは、オレだけだろう?」
兄者は口端を片方持ち上げていつものように意地悪く笑い、鼻息を吐いてふいと顔を逸らした。耳がほんのり赤く見えるのは、火に照らされているからだろうか。
「お前が泣くなんて、余程なのだろうな」
「な、泣いてなんていませんよ。ハンサムが台無しになってしまうじゃないですか」
「ハッ、よく言う」
兄者が身じろぎした。ふたりの間で燭台の火が瞬いた。
視線がぶつかった。見詰め合って、先に私が立ち上がる。そしてテーブルに手を突いて、顔を近付けた。兄者は動かない。頭を傾けると、鼻先が触れる距離になって、兄者が目を閉じた。引き結ばれた唇に触れる。今は、触れるだけのキスで充分だった。兄者の唇は少しかさついていた。
「愛しています」
吐息混じりに呟いて、もう一度距離を詰める。
愛の花は、これからも枯れることなく、死を跳ねのけて、鮮やかに咲き誇ることだろう。
嗚呼、私の愛する人よ。どうか生涯、愛を囁かせてください。