懊悩の一手先

――攻めの一手を見誤った。

 そう思った時には遅かった。

 摘み上げられたナイトが移動して、私のルークを蹂躙した。盤上は兄者の黒い駒に占拠されつつあった。兄者に追い詰められたのは、子供のころ以来かもしれない。

「お前らしくないな」

 向かいで兄者が言う。

「……なにがです」

 私は兄者の方を見ず、顎に手を添えて、盤を見下ろしたまま返した。言葉の端に宿る苛立ちが伝わってしまったかもしれない。それほどに、私は今、らしくないが、苛ついている。

 対局が不利だからというわけではない。次の戦で、策を実行するべきか悩んでいるのだ。敵の砦を落とすのは実のところたやすいが、それには多くの犠牲が伴う。犠牲を出さずに勝つというのが私の信条だが、今回ばかりは、それは難しい。下手をすれば小隊をひとつ失ってしまう。大勢の味方が死ぬ。しかし、戦は待ってはくれない。これ以上判断を保留することはできない。

 駒を移動させる。嗚呼、これではさらに状況を悪化させてしまう。ツークツワンクだ。私はなんてことを。

「なにを焦慮している」

 兄者は駒を動かしながら「チェック」と小さな声で結んだ。

「……っ」

 小さく息を呑み、弾かれたように視軸を上げる。私を見詰める兄者の表情は翳っていた。

 視線が重なり、名前を呼ばれる。その声があまりにも優しくて、鼻の奥が痛くなって、涙が出そうになった。

「オレの参謀であるお前が、なにを決断できずに苦悶しているのかわかっている。無理はするな。お前は十分貢献してくれている。次の戦は、出陣せずともいい」

「いえ、そうはいきません。私には、あなたの参謀としての責任があります。冥府騎士団を勝利へ導くという責務があります」

 追い詰められたキングに、逃げ場はなかった。

「言いたいことはそれだけではないだろう?」

 最後の一手を急かすことなく、兄者は鷹揚と腕を組んだ。兄者はなんでもお見通しだ。ふっと吐息混じりに笑いが漏れた。

「私は弱い。未だに甘い考えを捨てられずにいるのです」目を閉じ、鼻息を吐いて、瞼を持ち上げる。「戦に犠牲はつきものなのに、犠牲を出さずして勝とうということに固執してしまう。そんなものは絵空事でしかないのですがね」

 胸につかえていたどろどろとしたものを吐き出す。兄者はゆっくりと瞬きをすると「いや」口火を切った。

「お前の考えは間違っていない。たしかに犠牲を出さずに勝つことは難しいが、犠牲は少ない方がいい」

 こんな甘い考えを持つ弟に対して、兄者はどこまでも優しい。

「兄者、私は、」

 ふとあることを思い出し、言葉を切って俯く。そういえば、チェスを覚えてから、誰にも言えない悩みや言葉にできない感情を整理できないでいる時に限って、兄者はチェスをしようと誘ってくれた。

 対局中に交わす言葉は、いつも本音だった。終局のあとは、心の内側にこびりついた感情は綺麗に落ちていった。

 もしかしたら、兄者は、こうして私の心情を量ってきたのかもしれない――。

「兄者には」最後の一手は、悪足掻きに等しかった。「敵いません」

 私の負けだ。

 それでも、清々しい気持ちだった。

「おかげで考えが纏まりました。策を練り直します」

 横に倒れたキングを横目に立ち上がる。

「デスパー」

「はい」

 上と下で目が合った。兄者の黒黒とした眸が、真っ直ぐに私に向いている。

「戦場では、時に決断を迫られる時がある。お前はその決断ができる。今までもそうだった。お前は決して弱くなどない」

 瞬発的に目頭が熱くなって、ごまかすように顔を逸らす。なにか一言、洒落た冗談でも返せたらよかったが、できなかった。

 背中越しに片手をひらりと振って、幕舎をあとにする。

 兄者、次の戦も、あなたに勝利を捧げましょう。