「ソリー」
背後から声をかけられて、驚いて咄嗟に足を止めて振り返る。
人の気配などなかったのに、通ってきた燈の欠けた廊下の真ん中に、べビンが立っていた。首には蛇が一匹、首飾りのようにぶら下がっている。
「驚いたな、いつの間にうしろにいたんだ」両手に抱えた書物の山を抱え直し、ふっと笑う。「全然気が付かなかった」
「書庫へ行くのか?」
蛇腹をくねらせて首に巻き付いた蛇の狭い額を指先で撫でながら、べビンは頭を傾けた。
「ああ。執務室を整理していたら借りっぱなしのものがたくさん出てきてな」
「重いだろう。少し持とう」
「いいのかい? 助かるよ」
抱きかかえた厚い本の山が半分以下になると、本で隠れていた視界が明けて、重さで痺れていた腕が楽になった。
「そんなに持ってくれるのか」
「うしろからずっと見ていたが」べビンは口髭の下で口の端を片方持ち上げた。「あんな風によたよたしながら歩いていたら、心配にもなるさ」
二人で書庫まで続く廊下を歩いた。人気がなくなり、ちらりとべビンを一瞥して口を開く。
「そういえば、お前さんに頼んでいた例の件だが、偵察できたかい?」
声を潜めると、こちらを向いたべビンの垂れがちの目と視線がぶつかった。黒い眸に一瞬自信がよぎる。
「お前の推測通りだ。あの国が戦に敗れるのも、時間の問題だ」
「そして簒奪者に玉座を奪われる、か。もしくはその前に休戦条約が成されるか……どちらにせよ、領土がなくなるのは間違いないな」鼻息を吐く。「きっと資源も奪い尽くされるだろう。可哀想に。武力ではなく外交で冷静に話し合うべきだ」
「それができない連中が戦をおっぱじめるんだ。理由をこじつけて、自分たちの国を豊かにしようと、領土を広げるために戦をふっかける。勝てばまた次の戦をはじめる。やがて国は疲弊し、民は飢える。負の連鎖だな」
「我が国がそうならないように、平和を維持しなくてはならないな。……先の戦は、失ったものが多いから」
書庫に着いた。ドアを開けると、古めかしい本と埃のにおいが鼻先を掠めた。
「そこに置いてくれ」
入ってすぐに閲覧テーブルを顎で指すと、べビンは抱えていた本を置いた。
「あとは大丈夫だ。いやあ、助かったよ」
「そりゃあよかった」
べビンは蛇の顎の下を撫でながら言った。蛇はようやく撫でてもらえたからか、嬉しそうに頭を主人の手に擦り寄せている。
「ああ、そうだ、ソリー」
「ん?」
「あの国への偵察はもう不要か?」
静まり返った書庫に、べビンの低い声が溶け込む。
「そうだなあ」顎を摩り、思案する。「まだもう少し、頼んでいいか。国の行く末がわかっていても、気になるもんでね。状況が変わる可能性も、なきにしもあらずってやつだ」
「わかった。もうしばらくオレの蛇を放っておく」
べビンは踵を返した。幅の広い肩に、でっぷりとした蛇の緑色の蛇身が乗っている。
「あ、この本はサンデオのものだ、間違えて持ってきてしまった」
ガチャンとドアが閉まる音がして、顔を上げる。手にした本に気を取られているうちに、気配もなく、足音もなく、べビンは書庫から立ち去っていた。
まるで蛇のような男だなあと思いながら、書庫の高い天井を見上げた。