残夜の鼓動

 ふと目が覚めた。

 室内はまだ暗い。もう一度眠りに就こうと思ったが、目はすっかり冴えてしまった。

 身体を起こし、ベッドを出て手探りで燭台に火を灯す。振り子時計を見ると、まだ寅の刻だった。起床時間までまだあるが、起きてしまおう。

 身だしなみを整えて、着替えを済ませ、王冠を被り、懐中燭台を手に、寝所を出て執務室まで歩いた。

 執務室の燭台に火を付け、椅子にどっかりと腰を下ろす。やるべきことはまだ山ほど残っている。朝までにどれくらい片付くだろうか。

「誰かいるのか?」

 ドア越しの声に、集中力が途切れた。細かな字が書かれた羊皮紙から顔を上げるのと、ドアが開くのはほぼ同時だった。

「……兄者?」

 兜を小脇に抱えて、目を瞠ったオウケンが立っていた。

「まさかこんな時間に執務を? まだ卯の刻にもなっていませんよ」

「早くに目が覚めてな」

「お身体に障ります」

「平気だ。お前こそ、甲冑を着てどうしたんだ?」

「僕は毎朝、中庭で鍛錬をしているのです」

「鍛錬?」

「そうです」オウケンは執務机の前に立つと、剣呑と眉を寄せた。「兄者、お休みください。ご無理はなさらず」

「これでもきちんと休んでいる」

「……兄者」

 オウケンの険しい顔つきに、渋々羽ペンをスタンドに戻す。

「わかったからそう怖い顔をするな。だが今から寝るのもな……」ううんと唸って腕を組む。「鍛錬はこれからか?」

「はい」

「なら、久し振りに手合わせでもするか」

「……しかし……」

「お前の剣の腕を見ておきたい」

 オウケンの言葉を遮り、腰を上げ、マントの留め具を外す。

「では、鎧と剣を用意しましょう」

 オウケンはようやく愁眉を開いたようだった。

 中庭はうっすらと明るくなっていた。昧爽の澄んだ空気を吸い込み、長剣の鯉口を切り、するりと抜いた。

 鍛錬用といえども、金棒ではなく、剣を使うのは久し振りだった。甲冑を着込むのも久し振りだった。

 剣の柄は手によく馴染んだ。

 毎朝オウケンと鍛錬をしているという隊長と副長が、庭の端で揃っておろおろしている。王だって鍛錬をするのだから、そこまで狼狽えなくていいのだが。

「手加減は不要だ」

「もちろん、そんなつもりはありません」

 数歩先で、オウケンが抜身の剣を構えた。

 一瞬で空気が変わった。張った空気が剥き出しの頬をぴりぴりと刺激する。

 一歩踏み出して、剣身を突き出した。オウケンは上半身を捻ってそれを避けると、剣を振り下ろした。咄嗟に顔の前で受け止める。刃が震え、火花が散った。

 一度離れ、すぐに一合、二合、三合と打ち合った。剣戟が中庭に響く。オウケンの太刀筋はわかっているつもりだったが、やはり、昔とは違う。確実に重く、鋭く、より速くなっている。なにより、隙がない。冥府一の剣王の名にふさわしい剣だった。

 剣を上に受け流した瞬間、オウケンの剣が消えた。

 否、オウケンは目にも止まらぬ速さで剣を横に薙いでいた。

 銀の刃が薄闇を裂く。

「…………!」

 しまった、と思った時には遅かった。これが戦場であれば、己は脇腹を深く斬られて、致命傷を負っていただろう。オウケンの剣は、脇腹に水平に当たっていた。

 オウケンの食い縛った歯の隙間から鋭い息が漏れている。

「……見事だ」

 ぽつりと呟くと、オウケンが身体の力を抜くのがわかった。

「さすが、冥府の剣王だ」

「僕はもっと強くなります。あなたのために。冥府の民のために」

「誇らしいぞ、オウケン」

 朝日が差し込んで、オウケンの凛々しい表情を照らし出す。

「お怪我はございませんか、デスハー様!」

 隊長と副長が、慌てた様子で駆け寄ってきた。

「問題ない」剣を鞘に納める。「さて、朝食にするか」

「そうですね。僕も空腹です」

  先ほどまでの覇気はどこへやら、オウケンは懐っこい笑顔を浮かべた。

 

 王族にありがちな、料理が有り余るほどの飽食というものが好きではない。

 使用人たちもそれを理解しているので、今では長いテーブルに並ぶ皿の数は少ないが、弟たちと囲む食卓は明るかった。

 食卓には、パンと、野菜とレンズ豆のスープと、キノコとほうれん草のパイ、かりかりに焼けたベーコンが並んでいた。

「このほうれん草のパイ、美味しいですね」

 斜め前に座るオウケンは、そう言って一口に切り分けたパイを頬張った。オウケンはなんでも、実に美味そうに食べる。食欲も旺盛だ。食べっぷりは見ていて気持ちがいい。

 子供のころから、兄弟の中で一番よく食べるのがオウケンだった。

「オウケン、今朝は一段とよく食べますね」

 蜂蜜入りのワインに舌鼓を打ちながら、デスパーが言った。

「そうかな? 兄者と手合わせをしたからかもしれないな」

「兄者と手合わせをしたんですか?」

「ああ、たまたま早く起きてな」

「ふたりとも早起きですねぇ……オウケン、私の分もお食べなさい」

「いいんですか、兄さん」

「鍛錬を終えてお腹が空いているでしょうし、たくさん食べなさい」

「それじゃあ、遠慮なく」

 オウケンが食卓の中央に置かれた皿に手を伸ばした。

 一台あった小振りなパイは、もうあと一切れになっていた。

「兄者は食べないのですか?」

「二切れ食べた。あとは全部食べていいぞ」

「パイはほとんど僕が食べたようなものですね」オウケンは気恥ずかしそうにはにかんだ。

「残すよりずっといいさ」ちぎったパンを口に運ぶ。「たくさん食べるといい」

 オウケンはパイを平らげると、皿に残っていたベーコンに齧りつき、残さず食べた。

「満腹です」

 手元のグラスを引き寄せて、水を一口飲んで、オウケンは満足そうに言った。

「私はもう少しワインをいただきます」

「朝から飲み過ぎるなよ」

「大丈夫ですよ」

「僕も蜂蜜入りのワインを飲んでみようかな?」

「やめておきなさい。あなたは下戸なんですから。すぐ寝ちゃうでしょう」

 デスパーに諭され、オウケンは苦笑いして、また水をあおった。

 テーブルの上で、三又の燭台に灯った蝋燭の火が明滅する。

 兄弟で囲む食卓はあたたかかった。