祈りの羽化

 愛馬の息が整うころには、遅れていた部下たちがうしろに着いていた。

 騎馬兵の鍛錬のために城を出たのは昼過ぎだったが、今はもう、日が傾いていた。

「あの丘で少し休んで、城に戻ろう」

 部下たちに告げ、馬首を返し、愛馬の横腹を蹴って、丘まで駆けた。

 丘に着いて、馬を降りて、親指の腹で兜の面頬を上げる。火照った頬を撫でていく風が心地いい。

 丘の先端に立つと、地平線の彼方で、街の燈が見えた。遠くで光る柔らかな燈の群れは、冥府の繁栄を表しているようだった。

「冥府は燈が絶えません。希望と同じです」隊長が隣に立った。「デスハー様の御威光が行き届いている証ですね」

「いい景色だな」

「ええ。そう思います」

 冥府にはまだ苛烈な戦の爪痕が残っている場所もあるが、街は復興を果たした。王の優れた才幹と数多の功績、そして、決して希望を捨てずにいた民たちのおかげだ。

「……さあ、帰ろうか、隊長」

「はっ」

 草を食んでいた愛馬に乗り上げる。

辺りはすっかり暗くなっていた。

「兄者の才と努力には感服します」

 ベッドの中では似つかわしくない言葉かもしれないが、言わずにはいられなくて伝えると、兄は隣で、ヘッドボードに寄り掛かったまま目を瞬かせた。

「なんだ、いきなり」

 兄は賞賛を嫌うから、顔をしかめて嫌がるかと思ったが、素直に受け止めてくれたらしい。

「今日、街の燈を見て、あの戦争からよく復興したものだと感心したのです」

 仰向けのまま身じろぎして、兄の方へ頭を傾ける。夜な夜な王の寝所を訪れては、こうして逢瀬に興じて添い寝をしている。

 今夜は眠りに就く前に、もう少しだけ話がしたかった。

「完全に復興したわけではない」

 兄は、読んでいた書物に栞を挟んで閉じた。

 表情が険しくなっていた。

「問題はまだまだ山積みだ。荒廃したまま貧民街になってしまった場所もある。環境を変えなければならない」

 王からひとりの男に戻っていたのに、兄は再び、王の顔になっていた。

「そのためには――」

「兄者」

 たまらず言葉を遮った。

 一拍置いて兄は苦笑し、溜息を吐いた。「すまん」前髪をかき上げるように額を撫でる。「ここでする話ではないな……」

「治世が続くように、僕はこれからも微力ながらお力添えします」

「頼りにしている」

 兄は莞爾と笑み、それから、書物をナイトテーブルに置き、毛布を捲った。「寝るか」

 本の隣にあった燭台の火が消えて、室内が暗くなった。

 隣で兄が毛布に潜り込む気配がした。厚く硬いマットレスが動きにあわせて微かに揺れる。

 完璧な静寂が訪れる。暗闇の中で、街の燈を思い出す。

 冥府のために、まだまだやるべきことは多い。

 冥府の暗い過去も、今ある平穏も、この先に待ち受ける未来も、すべて背負おう。王のために誰よりも強くなろう。民のために誰よりも慈悲深くなろう。

 だからどうか、どうか、この先も治世が続きますように――。

 羽化した祈りが羽ばたいて、冥府の夜を飛んでいった。