「オウケン、たまには羽根を伸ばすのもいいでしょう。お忍びで街に行きましょう」
身分を隠すといえども、兄と街に繰り出すのは久し振りだった。食事をしに酒場に行くのか、はたまた、武器屋に連れて行ってくれるのか。
城を出て、街まで馬で駆けた。街の入口で馬を降り、手綱を曳き、外套のフードを被って門をくぐる。
街は賑々しく、活気にあふれていた。人間だけでなく、魔族も多い。多種多様な種族が行き交っている。多様性を受け容れた王の統治があまねく行き届いているのだと実感して嬉しくなった。
「こっちです」
兄は何故か大通りを逸れて、人目につかない道を進んだ。酒場や武器屋とは反対方向に進むので、不思議に思って「兄さん、どこへ行くの?」と訊ねると、兄は足を止めずに「もうすぐ着きますよ」言った。
どこへ行くのか見当もつかないまま兄に続いた。
やがて見えてきたのは乳白色の高い建物だった。なんだか甘ったるいにおいがした。突き出たバルコニーに着飾った若い女がふたりいて、こちらに気付くと微笑んで控えめに手を振った。仕草がどうも艶っぽい。それに、服装が乱れていた。ドレスは首回りが大きく開いていて、胸の谷間が見えている。
「御機嫌よう」
左側の女が微笑んだ。
「御機嫌よう。今日も美しいですね」
「あら、ありがとう」
兄が手を振り返すと、女は手で口元を隠して品よく笑った。
「兄さん、ここは? あの人は知り合い?」
「ここは娼館ですよ」
「えッ?」
「オウケンはまだ色を知らないでしょう? 私の奢りです、行ってきなさい」
「そんな……」
頭を殴られたような衝撃に、二三歩あとずさりする。
頭上で女たちがひそひそ話しながらくすくす笑っているのが聞こえた。かあっと顔が熱くなる。
「なぁに顔を赤くさせているんです、ウブですねぇ、あなたは」
兄の言う通り、女と情を交わしたことはない。柔肌を知らないのは事実だが、未熟な自分が色にうつつを抜かしている場合ではないのはよくわかっている。こうしている間にも、王である長兄は、民のため、国のために勤勉に責務を全うしているのだ。
ややあって、無意識に強く握り締めていた拳を開く。
「兄さんごめん、僕は帰るよ」
「せっかく至福のひと時を味わう機会なのに、いいんですか?」
「うん」
頷いて踵を返す。馬が鼻を鳴らした。
首だけ巡らせると、兄は少し残念そうな顔をしてバルコニーの女たちに手を振っていた。
「オウケン」兄は早足で並ぶと、咳払いをした。「いいですか、今のことは、兄者には内緒ですよ」
愛馬の手綱を曳きながら、兄は人差し指を唇に押し当てた。
「言わないよ。それより兄さん、食事をして帰ろう」
「そうですね。お金も浮きましたし、食べて帰りますか。なにが食べたいですか」
「そうだなぁ」風が吹いてフードが捲れた。被り直していると、空腹で腹が鳴った。
「色気より食い気ですねぇ、オウケンは」
隣で兄が笑った。つられて笑った。笑い声はすぐに街の雑踏に紛れた。
冥府に、ゆっくりと夜のとばりが色濃く降りはじめていた。