月光、影を灼く

 トイレに行きたくなって目が覚めた。

 隣にヒューズの姿はなかった。トイレのタイミングまで合うのは快くはないが、お互い歳なので仕方がない。

 スリッパを引っ掛けてベッドを出ると、ベランダに出る窓が開いていた。吹き入る夜風がカーテンを靡かせている。もちろん就寝前に戸締りはした。

 足を止めて、なんとなくカーテンを開けると、窓の向こうに手摺りに寄り掛かるヒューズがいた。白銀の月明かりに照らされた彼の背中は哀愁が漂い、物思いに耽っているように見えた。

 なにをしている、と声を掛けようとした時

「ん、起きたのか」

 気配に気付いたらしい、ヒューズは肩越しに振り返った。彼は葉巻を咥えていた。

「眠れないのか?」

「ああ。小便に行ったら目が覚めちまってな」

 ヒューズは困ったように肩をすくめた。

「せっかくだ。来いよ。美しい月でも見ようぜ」

 誘われるままベランダに出てヒューズの隣に立った。彼の咥えた葉巻の先で、火口が瞬いて濃い紫煙が立ち上る。ガスマスクが欲しくなった。

「お前が寝てる時、寝顔を見たあとたまにここで一服してんだ。知らなかったろ」

「お前が喫煙者であることも知らなかった」

「たまに喫うくらいだからな。お前は……あー、悪ィ、喫わねぇか」差し出しかけた葉巻を、彼はまた鷹揚と唇に運んだ。

「いい夜だよなぁ。サルボで過ごしてきた夜とは大違いだ。静かで、月が綺麗で、そんで隣にはお前がいる。最高だ」

 目尻の皺を深くさせて、ヒューズは莞爾と笑んだ。杏杏とした夜の色とか細い月明かりが、戦場で生きてきた傭兵の顔に刻まれた昂然とした生き様を浮き彫りにさせている。濃い褐色の眸には、彼が経験してきたであろう苛烈な過去が息づいていた。

 互いを凝眸していると、不意に冷たい風がふたりの間を吹き抜けていった。ヒューズの崩れた白髪の混じった前髪がさらりと揺れる。

「なぁ、キスしてもいいか?」

 独り言のような、小さな声だった。

「……今なら許してやる」

「そんじゃ、遠慮なく」

 手摺りをヒューズの影が滑って、距離が詰まった。葉巻の甘ったるい煙のにおいがして、無防備な唇を塞がれた。潜り込んできた舌に舌先を掬い取られる。啄むと、苦かった。同時に錯雑とした甘味を感じた。

 葉巻の味――朝一番にキスをした時のヒューズの味だった。

 彼が夜な夜なここでひとりで夜明けを迎えていたのだと気付いた。

 もう戻ることはできない故郷を思っていたのだろう。

 知らなかった。

 知りたかった。

 ヒューズのガウンを掴み取って引き寄せ、もう一度キスをする。今度は咬み付くように。

 離れると、ヒューズは喉の奥でくつくつと笑った。

「どうした? 俺が隣にいなくて寂しくなっちまったか?」

「それはお前だろう、サルボの老犬」

 彼は呆気にとられたような表情のあと、不敵に笑んだ。

「ここはサルボじゃねぇが、俺は生きていける。なんせお前の隣で生きるって決めたからな。……寂しくなんかねぇさ」

 月明かりを吸ったヒューズの眸は希望で生き生きとしていた。

 不揃いの影が月明りに浮かび上がって燃えている。

 今夜だけは、ヒューズとここで夜を明かしてもいい。