カーテンのない窓から差し込む月明りで、蝋燭の火だけが灯る寝室はいつもより明るかった。滑り込んだ月光は部屋の中央まで伸びている。白い無垢な光が壁際のベッドまで届かなくてよかった。届いてしまったら、組み敷かれ、辱しめられていることが暴かれてしまうようで怖い。
ベッドの足が軋む音を聞きながら、頭を傾け、微かに揺れる視界の中でぼんやりと窓の向こうに広がる夜の色を見据えていた。
ジェイコブにここで犯された日から、ずっとこうしてきた。そうすることでしか、氷が溶けて崩れていくのと同じように、形を失くしていく心を繋ぎ止めることができなかった。
抵抗も懇願も悪あがきにしかならず、排泄器官であるそこに欲望を突き立てられて、諦めてされるがままに蹂躙されたあの夜も、ちょうどこんな風に澄んだ月明りが差していた気がする。
「保安官」
ジェイコブの動きが止まった。窓の外に向けていた意識が寝室に戻る。顔を正面に向けると、冷め切った目と視線が重なった。
「こっちを向け。俺を見ていろ」
吐息で紡がれた命令に、遠のいていた疼痛が腹の底を刺激した。
抽挿が始まって、奥を突かれると反射的にみっともない声が漏れる。腹の中を掻き回され、押し寄せる疼きと臓腑の隙間を突き上げられる圧迫感に思考がままならなくなる。濡れた肉と肉がぶつかり、粘っこい音が跳ねる。生々しい衝突にたまらず彼の背中に腕を回してしがみついた。
ジェイコブに拓かれた身体は、意思とは関係なしに彼を奥深くまで受け容れる。幾度精を注がれても、孕んだりはしない。屈辱だけが植えられる。身体を重ね続けることで雌孔のように変えられてしまったそこで、一刹那の快楽を感じることがあるが、彼から与えられる快楽は恐怖でしかなかった。背骨を伝い上がった法悦が弾けて脳を揺さぶり、なにも考えられなくなって、味わいたくない甘ったるい痺れが全身に走ると、まるで自分が自分ではなくなるような、漠然とした不安に襲われる。
荒々しく抱かれ、苦痛を感じることで、自分を見失わずに済んだ。彼を恨むことができた。
広い背中に爪を立てて、歯を食い縛り、早く行為が終わることを祈った。
「何故お前は顔を逸らす?」
夜が更けて、事後に彼はそんなことを訊いてきた。
「あなたが怖いからです」
彼の問い掛けを背中で受け止め、振り向かずに素直に気持ちを吐き出した。彼はそれ以上なにも言わなかった。
ベッドの淵に座り、床に落としていた下着を拾って穿く。立ち上がろうと手を突いた時、腕を掴まれた。息を呑んで、弾かれたように首を巡らせる。
「今夜はここにいろ」
「え?」
行為が終われば、夜の間に彼の寝室を去ることが常だった。今夜も、歩き慣れた暗い廊下を重い足取りで歩き、誰ともすれ違わないまま、教団に必要がない屋敷中の家具が詰め込まれた倉庫となっている空き室に戻り、埃のにおいに包まれながら、片隅に置かれた革張りのソファで眠るつもりだった。
「ここで……ここで寝てもいいんですか?」
「二度も言わせるな」
ジェイコブはそれだけ言って背中を向けて身体を横たえた。
生臭い静寂が部屋を満たした。
窓の方を向いておずおずとキルトに潜って目を閉じると、すぐに眠気が被さってきた。
セミダブルのベッドに体格のいい男と並ぶと窮屈だったが、ベッドで寝るのは久し振りだった。マットレスの柔らかさと、キルトにこもる温もりが心地よかった。たとえ彼の隣でも。
その夜は蒸し暑かったが、寝室の窓は閉まっていた。
制服のシャツのボタンをすべて外し終え、脱いだところでそばにくるよう言われた。足元にシャツを落としてベッドの横に立つジェイコブに歩み寄って向かい合うと、腰に腕が回った。距離が詰まり、咄嗟に数歩退いて横を向いたが、抱き寄せられて、腰が密着した。
「逃げるな」
顎を掴み取られ、無理矢理彼の方を向かされた。
「こっちを見ろ」
鼻先に吐息が掛かった。落としていた視線を彷徨わせ、彼の厳つい顎を覆う髭より上を恐る恐る見やる。ジェイコブの暗い眸の奥に静かな怒りが渦巻いているのを見て身体が強張った。彼は怒っている。
殴られるかもしれない。今度こそ殺されてしまうかもしれない。
仄暗い死に対する恐れに、指先から血の気が引き、身体が小刻みに震えだす。
ナイトテーブルの上の短くなった蝋燭の火が風もないのに瞬いて、壁に張り付いた不揃いなふたつの影が歪む。
ジェイコブは拳を握る代わりに俺の瞼に掛かった前髪を指先ではらった。
「今夜はただ俺を見ていろ」
なによりも残酷な命令のあと、脇のベッドに投げ出された。まだ冷たいシーツに両手を突いて息を弾ませて振り返る。ジェイコブはジャケットを脱いでいた。布が擦れる音を聞きながら逆光に浮かぶシルエットを見上げる。柔らかい月明りを背に立つ彼の表情は翳っていてわからなかった。
月が叢雲に隠れてしまったのか、部屋の中が暗くなる。
床に服の山ができて、男ふたり分の体重を受けたベッドの足が無機な音を上げた。
ジェイコブを怒らせてしまった。
これ以上刺激しないように命令に従い、足の間に割り入って被さる彼を見詰めた。
ジェイコブの唇が首筋に寄った。リップ音が弾み、皮膚を強く吸われた。硬い髭がくすぐったい。
ろくに慣らしもせずに捩じ込むいつもの荒っぽい交わりとは違い、彼は分厚い掌で剥き出しの熱を帯びた肌を撫で、口付けを落とし、時間を掛けて俺の身体を拓いていった。
乳首を舌でねぶられ、顎を固くさせる。微かな刺激はシーツを握り締めていた手から力が抜けるほど官能的だった。彼が唇を離すと、ぬらぬらと濡れて尖った胸の先が熱く疼いた。ぷっくりと膨れた乳首を爪の先で弾かれ、身体がびくりと攣った。
顎の力を緩めて体内にこもった熱を吐き出す。
「なんでこんなことするんですか……いつもは……こんなッ……」
掠れた震える声が最後までジェイコブに届いたかわからなかった。
「お前が逃げるからだ」
突っ張った彼の腕の下で、マットレスが軋んだ。
「逃げてなんか……」
「いいや、お前は逃げている。犯されている間俺のことを一度でも見たことがあるか? ないだろう。顔を逸らして耐えている。心ここにあらずだ。健気なものだな」
折り曲げた足の間で、彼は上体を起こした。
「俺を見ろ、ステイシー」
初めて名前を呼ばれ、息が詰まった。「保安官」でも「ピーチズ」でもなく、ジェイコブは確かに俺を呼んだ。俺の名前を呼んだ。彼が付けた肌に沁みた鬱血の痕と同じく、言葉は呪いのように俺を恐怖に縛り付け、ひび割れた心の隙間に潜り込み、内側から最後の砦を打ち崩していった。
「俺にお前のすべてをよこせ。身も、心もだ」
薄闇の中でジェイコブの眸がぎらりと光った。
彼にすべてを奪われてしまう。なにもかも。腹を空かせた獣のように彼は俺を貪り食う。最後はきっと、骨も残らない。
目に涙が湧いた。嗚咽し、はくはくと口を動かして酸素を肺に取り込んでいると、ジェイコブの手が伸びてきて指を二本口腔に押し込まれた。噛み千切ることもできずに吸う。指が引き抜かれると唾液の糸が舌と指先を繋いだが、すぐに途切れた。
膝裏を掴み取られ、足を広げられ、窪みに指があてがわれる。
薄い粘膜を割り、指は体内を掻き回した。
「あ、あ、あぁ……」
粘着質な音を立てて、孔が彼を受け容れるためにほぐれていく。腹の底でどろどろに煮詰まった性が彼を求めている。身体を硬直させ、喉を弓なりにし、慣れたはずの疼痛と味わったことのない夢心地に責め立てられて、わけもわからぬまま、女のように喘いだ。肉色の粘膜は彼の形を覚えようとするように貪欲に攣縮し、もっと熱く、硬く、体内の奥を穿つ凶悪なものを欲している。
指が抜かれ、大きく息を継いだ。間もなくしてひくつく亀裂にジェイコブの昂りが押しあてられた。手首を反らして枕の端を握り締めたが、指よりもずっと質量のあるそれはすぐに挿入されず、尻の割れ目をなぞり、感触を確かめるように孔に触れるだけだ。
「力を抜いていろ」
いよいよジェイコブが腰を突き出し、出っ張りが孔の淵を押し広げる。
「ぐ、う、あッ、あぁ……! あッ……!」
圧迫感が腹を満たした。頭を擡げて結合部を見れば、血脈を浮かせて怒張したペニスはもう根元まで埋まっていた。
身を乗り出し、浅く息を吐いて、ジェイコブは腰を引いた。腹の中が燃えるように熱い。引いた腰がゆっくりと打ち付けられ、腹の内側を擦り上げられた瞬間、押し寄せた強烈な極致感に頭の中が真っ白になった。衝撃に息ができなくなる。全身を強張らせ、折り曲げた足を痙攣させ、たまらず声を張り上げた。
「感じてるのか?」
くねらせていた腰を止め、ジェイコブは俺の顔を覗き込んだ。彼はまっすぐに俺を見ている。暴力に屈し、自尊心をズタズタにされて膝を折るだけでなく、こうして夜な夜なみだらに身体を開いている俺を。
「い、いやだ、見ないでください」
前腕を額に引き寄せて涙で滲んだ目を覆う。
「見ないでッ……!」
「ステイシー」
「……ッ、やだ、俺を呼ばないでください」
「俺を見ろと言ったはずだ」
すぐそばで声がして、熱い吐息が鎖骨に掛かって、肩口に軽く咬み付かれた。
腕を下ろすと、ジェイコブと視線が絡んだ。緋色の燈に濡れた彼の眸に、ずっと望んでいた慈悲が浮かんでいた。散々傷付き、打ちひしがれてなお乞うた憐みが蝋燭の揺れる火に照らし出されている。
「泣くな」
彼が頭を傾けた。目を閉じると、唇を塞がれた。舌が唇の隙間から滑り込んできて、奥に引っ込んでいた塊を絡め取られる。吐息を交え、夢中で彼の動きを追った。感情を滾らせた恋人同士のような口付けだった。
「あ……」
頭がぼんやりとしてきた。鼓動が速い。どちらがどうというわけもなく離れ、上と下で見詰め合うと、彼に対する気持ちが揺らいでいくのがわかった。
「……ジェイコブ」
一握の憐憫によって、残杯冷炙の毎日の中で彼に抱くようになっていた憎悪が、畏怖が、身体に染み付いた恥辱が、諦念が雲散していく。彼を恨んでいた筈なのに。
「お、お願いだから、優しくしないで……」
振り絞った声はか細いものだった。
「俺はあなたが憎いんです。嫌いなんです……なのに、なのにそんな風にされたら俺はどうしていいかわからなくなってしまう。あなたのせいで俺が俺じゃなくなっていくんですよ。溶けた氷は二度と元の形には戻らないのに」
力なく笑う。
ジェイコブは曖昧に頷いた。
「なら俺が器になってやる。俺の中で、また形を成せばいい」
胸の奥で心臓が跳ねた。それを見透かすような彼の眸に怯んで唇を引き結ぶ。鼻が痛くなって、目の前が水っぽく歪む。瞬くと、湧いた涙が睫毛に絡んだ。
「なぁ、ステイシー」
距離が詰まり、閉じた唇にジェイコブの唇が軽く触れる。
「俺にすべてを委ねろ。もう苦しみたくはないだろう?」
囁きは甘ったるい熱を含んでいた。
「そうすればお前を誰よりも目に掛けてやる。……お前だけだ」
「…………ッ」
胸の内側できらびやかな感情もどす黒い感情もぐちゃぐちゃに混ざり合い、膨らんで、行き場を失くして破裂した。震える手を伸ばし、彼の首のうしろに引っ掛けて抱き寄せる。
「俺をそばに置いてください。俺はあなたのそばにいたい。あなたじゃなきゃだめなんです、あなたがいないと、俺は食われるだけの弱者のままだ」
言葉は嗚咽に変わった。奥歯を噛み締め、鼻をすする。
「ちゃんと言えたじゃないか」
ジェイコブは眦を細めた。初めて見る、彼の穏やかな表情だった。泣くのを堪えていると、額にキスが落ちた。
「褒美をやらないとな」
上体を起こしたジェイコブの両手が膝裏に移動した。足をさらに広げられ、繋がった部分が頼りない燈に暴かれる。体内にとどまっていた熱が引いて、一気に滑り込んできた。
「あッ……!」
衝撃の大きさに仰け反った。ジェイコブが腰を揺する。ベッドの足が耳障りな音を上げた。血の通った肉と肉がぶつかり合い、粘っこい音が息遣いに混じった。昂りが狭い肉の間を行き来する摩擦の回数が増え、ジェイコブの腰使いが円を描くものへと変じて、苦しいだけではなくなった。なにかが、腹の底から脊髄を伝い上がっていく。これがなんなのか知っている。ジェイコブの腕の下で腹を拓かれ、見付けてしまったものだ。
――快楽。
今まで感じたくないと思っていたのに、今は強く求めていた。押し寄せては引いていく怒涛に揺さぶられる。ジェイコブの目を見詰め、すがるように彼の脇腹に手を這わせ、肩甲骨の間に指先を食い込ませてしがみついた。脊髄に絡まった不随意な快楽がみぞおちのあたりまでせり上がって渦を巻く。
ジェイコブが腰を引き、ほぐれた孔からペニスが抜け落ちそうなところで腰が止まった。雁首の出っ張りに孔の淵を撫でられ、腹の底が熱くなった。
遅く長いストロークで腹の中を掻き混ぜられた。柔らかく敏感な粘膜はジェイコブを包み込み、締め付けて離さず、彼の動きに合わせて収斂を繰り返す。臓腑の隙間を突かれ、擦られ、身体の芯から蕩けていった。
官能は爛熟した果実のように盪くし、芳香を放っている。鼓動も体温も溶け合って、身体の境界線がわからなくなってしまいそうだった。
ジェイコブに震い付き、与えられる未知なる甘美を掻き集め、法悦に浸る。
愛すべき土地の秩序を乱すだけでなく、人々を混沌に落とし、恐怖で支配する男との交わりに、夜の色よりも濃い背徳感が胸に刺さるが、この密約に似た関係を知っているのは、月だけだった。
不意に腹の奥深くを押し上げるように突かれ、みぞおちで息づいていた快楽が滾った。声も出せないほどの一刹那の強烈な痺れが脳髄を貫き、体内を埋められる苦しさが真っ白に塗り潰される。汗が噴き出た。ジェイコブの腕の下で硬直した筋肉が一瞬で弛緩し、身体が痙攣した。初めて味わう絶頂に息も絶え絶えになった。頭がくらくらする。
果ててもジェイコブの腰が止まることはなかった。奥に突き込まれるたびに、押し出されるように口から濁った声が溢れる。
「あッ、あ、だ、だめッ、気持ちよくて……待って、やめ……」
呂律が回らなくなっていた。言い終わる前に腹の内側を強く叩かれ、爪先が張る。
「俺も限界だ」
胸にジェイコブの汗が滴り落ちた。腰の動きがラストスパートをかけたものへと切り替わった。猛々しい腰使いに責め立てられ、意識を手放してしまいそうで、剣呑に眉を寄せる。
「あッ……くぅ、あ、ジェイコブ……!」
腰が大きく打ち付けられ、沸点に達したジェイコブが弾けた。張りつめた陰茎が粘膜の間でどくどくと脈動して、精液が間歇的に、余さず腹に注がれる。腹の底から、じんわりと熱が広がっていった。
雄としての本能か、彼は吐き出したばかりの種を塗り広げるように、ゆるゆると抜き差しをした。
腹に居座っていた圧迫感がなくなり、被さっていた影が離れ、今度は事後のねっとりとした錆色の気だるさが圧し掛かってくる。
呼吸が落ち着いても、味わった夢心地の余韻は抜けなかった。ジェイコブの手から解放された足を折り曲げて引き寄せ、シーツに身体を横たえたまま天井を見据えて、火照った下腹に手を置く。逆流した精液が孔から溢流している感覚がして、身震いした。
おもむろに体温の染みたシーツに手を突いて身体を起こすと、ベッドの淵に腰掛けたジェイコブがわずかにこうべを巡らせた。俺を見詰める仄かな燈を吸った眸には、先ほどまであった温情は窺えなかった。親しみのない冷酷な眸に戻っている。いつものように俺を玩弄する時の目だ。
「これでお前は俺のものだ」
彼の吊り上がった口端と、眸に浮かぶ険しさにたじろいだ。あの時の惻隠は、俺を陥れるためのものだったのだと気付いた。
ジェイコブの横顔に視線を溜めたまま、奥歯を噛み締める。悔恨の熱に触れた氷がみるみるうちに溶けていく。結局のところ、俺は一抹の自尊心も護れない。
溜まりを掬われて彼の中で形作られたとしても、それはきっと、濁っていて、歪んでいる。