防波堤から見える海は穏やかで、潮騒の調べだけが心地好く耳に馴染んだ。
オイゲンの愛用している竿の先から伸びる糸は、垂らした時と同じくぴんと張っていて、朱色の丸いウキはぷかぷかと呑気に水面に浮かんだままだ。
半刻前に一匹稚魚を吊り上げてからというもの、反応はまるでなかった。
「ほんとに釣れんのか?」
ラカムは床几に座り直して、膝に頬杖を突き、オイゲンとの間に置かれたバケツを覗き込んだ。釣れた時に小さな喜びをくれた掌サイズの稚魚は、黒灰色の身体をくねらせて退屈そうに泳いでいた。
「今日は調子があんまよくねぇな。まぁ、気長に待とうや。釣れない時は魚が考える時間を与えてくれたと思えばいいって言うしな」
足の間に固定させた竿を持ち上げ、オイゲンは言った。
「大物が釣れるといいんだがなぁ」
「釣れる前に日が暮れそうだけどな」
ラカムは何本目かの煙草に火を付けた。潮風に白煙が流れていく。頭上では、旋回するカモメが愛らしい声で鳴いていた。
オイゲンに釣りに行こうと誘われた時は嬉しかった。が、想像していたよりも、残暑の日差しは堪えた。じりじりと肌が焼けるようだ。頬を流れ落ちる汗を手の甲で拭うと
「飲むか?」
横からオイゲンの手が伸びてきた。そこには涙滴型の茶色い革水筒があった。
「飲む」
革水筒を受け取って口元に引き寄せた。中身は水ではなくワインだったが、ありがたかった。喉を流れ落ちる冷えた液体は文字通り身体に染み渡るようだった。
「実のところ、オメエさんとゆっくり話したかっただけなんだけどよ」
「…………!」
唐突な一言に、危うく貴重な水分を噴き出すところだった。
「は、はぁ? なんだよいきなり」
「ほら、最近忙しくてあんまゆっくり話せてねぇだろ? たまにはふたりの時間ってやつが欲しくてよ」
ラカムを見詰めるオイゲンの隻眼が柔和に細まった。日差しに濡れる微笑みは眩しく見えて、胸に沸いた情熱がラカムの胸をかき乱した。
「オレだってほんとは……もっと一緒にいたいと思ってる」
革水筒を返すと、オイゲンはそれを足元に置きながら、あっ、と小さく声を漏らした。
「ガキの頃にも同じようなこと言ってたな」
「え?」
ラカムは思わず目を丸くさせてオイゲンの横顔に視線を溜めた。
「そんなこと言ったのか、オレ」
「ああ。ちょうどに今日みたいに一緒に釣りをしててな。オメエさんはオレの足の間に座って、オレの上着を握り締めて「こんな風にオイゲンともっと一緒にいたい」って言ったのよ」
潮風が、一瞬で紅潮したラカムの頬を撫でていった。
「あの時も忙しくて構ってやれてなかったっけなぁ。いやぁ、健気で可愛いもんだったぜ」
「全然覚えてねぇ」
「その晩はオレのベッドでくっついて寝た。今夜もそうするか?」
確信したようににやりと笑うオイゲンを見て、ラカムは頬を崩し、ありのままに答えた。
「そうすると、今夜はアンタを寝かせられそうにないな」
オイゲンは寄ってきた魚が逃げてしまうのではないかと思うくらい豪快に笑った。
「素直でいいじゃねぇか、ジジイ相手に頑張ってくれ。あと少し粘って釣れなかったら、帰って酒場でも行くか。この稚魚は逃がしてやろうな」
その時、ちゃぽんと、なにかが水面に落ちる音がした。揃って視線を正面に向けると、オイゲンの竿が大きくしなって、釣り糸が右往左往に引っ張られていた。
「こいつぁ、でかいな」
オイゲンが立ち上がって竿を引いた。
決着はすぐに着いた。海面に激しい飛沫が散って、バケツに入りきらない丸々とした大物が釣れた。
流線型の身体は銀色に輝いていて美しく、夏の終わりの思い出に相応しく、眩しかった。