ザ・シャーク×マスクドニャーン

 

 街は週末から降り続ける雪で真っ白に染まっていた。

 母に手を引かれ、家族連れで賑わうショッピングモールを歩いた。

 通り過ぎる店のショーウィンドウは、どこも豪華な装飾が施されている。

 サンタクロースにスノーマン。星、ツリー、ギフトボックス……見ているだけで楽しくなってくる。

 母に「ちゃんと前を見て歩きなさい」と繋いでいた手を引っ張られた。

 慌てて顔を正面に戻すと、一組の父子とすれ違った。父親に肩車をしてもらって、幼い息子はとても嬉しそうだった。

 視線で父子を追って振り返ると、かれらはすぐに人混みに消えて見えなくなった。

「ねえ、マミィ。クリスマスにはダディは帰ってくる?」

 期待を込めて母の横顔を見上げる。繋いだ母の手に力がこもったのが不思議だった。

「…………ね。…………だって。せっかく…………にね」

母の声は、モール内を流れていたクリスマスソングに遮られて聞き取れなかった。

 

 試合会場のアーチ型の天井からぶら下がる無数のペンダントライトは、冬の太陽よりも強烈な白い光を放って、会場の真ん中に位置する無人のリングを照らし出していた。リングの手前まで設けられた観客席は、老若男女で埋め尽くされている。最前列とリングを隔てるために並んでいる鉄柵の前では、ジャーナリスト達がカメラを手にリングと柵の間の狭いスペースを落ち着きなく行き交い、スポーツ紙の一面や雑誌に載せるインパクトのある写真を撮ろうと、試合開始前から飢えた肉食動物のように目をぎらつかせている。

 外は大雪に見舞われて、吐く息も白く、吹きつける風は鋭く肌を刺すが、ここは常夏のような熱気に包まれていた。

 空調機のけたたましい稼働音を遮る絶え間ないざわめきも、試合開始時刻が近付くと少しずつやんで、勢い盛んな炎にも似た興奮は、ねっとりとした静けさへと変わった。

「ニュー妖魔シティへようこそ! 紳士淑女、子供達諸君! 調子はどうだ? 外は吹雪いてクソみたいに寒いが、俺達には関係ないよな!」

 スピーカーから流れたリングアナウンサーのバリトンボイスが、錯雑とした会場の興奮と熱気をつついた。四方八方から歓声が上がる。

「待たせたな! 今宵リングを唸らせるのはぁ! 虎のマスクに緋色の毛並み、最小にして最強! 王者(チャンピオン)、マスクドニャアアアン!」

 右側の入場ゲートから白煙が噴き出た。中央のリングに通じるT字型の通路に集まっていたジャーナリスト達が一斉にシャッターを切った。エントランスのタイタントロンに、本日の主役を担うレスラーが映し出されると、会場は歓喜の声で溢れ返った。

「対するは! 泣く子も黙る大悪党! ザ・シャアアアク!」

 今度は、チャンピオンが現れた入口とは反対側のゲートから煙が噴出した。フラッシュが点滅する。紫色のライトに濡れるのは、先程登場したレスラーよりも大柄なレスラーだった。タイタントロンの映像が変わって、おどろおどろしいBGMが流れる。

 通路を闊歩し、リングロープを潜り、ふたりはリングの端と端で向き合った。体格差は大人と子供というよりも、まるで巨獣と子供だったが、マスクドニャーンは昂然としていた。

 妖怪プロレス団体における最高クラスのチャンピオンベルトを保持し、数年に渡って王座を守り続ける彼に挑むのは、悪党(ヒール)として名高いザ・シャーク。彼もまた実力者で、圧倒的な力とスキルを誇る不敗のレスラーだ。

 どちらが勝つのか、誰もが予想すらできなかった。マスクドニャーンにとって、この防衛戦は正義(ベビーフェイス)としての誇りをかけたものだった。

「猛虎と鮫のガチンコバトル! さあ、戦いの準備はできたか? 妖怪プロレス界を揺るがす大勝負が始まるぞ! 一瞬たりとも見逃すな!」

 ゴングが鳴ると、会場の熱気は弾けた。

 激闘の末にベルトが簒奪者に渡った時、冬の嵐のようなブーイングが悪党(ヒール)に向けられたが、シャークは鼻で笑い、中指を立て、煽るようにマイクパフォーマンスを行った。

 

 シャワーを浴びて着替えを終えて、試合会場とは打って変わって静かな控え室に戻り、シャークは壁際の簡易ベンチに腰掛けてセコンドを待っていた。天井の空調機が温風を吐いてごうごうと鳴っている。実際には微かな音だが、獣の唸り声に聞こえて、煩わしく感じる。

 傾けた頭を壁に預けたまま、時々視線を脇に置いたペットボトルのスポーツドリンクに向けるものの、中身は残っていなかった。喉はまだ乾いているが、買いに行くのも面倒だった。

 それよりも、今はただ早く眠りたかった。眠気が試合後の昂ぶりを少しずつ侵食し始めた時、誰かが入口のドアをノックした。音は随分低い位置からした気がしたが、ぼんやりしていたから、はっきりとはわからない。

「入ってくれ」シャークは座ったまま言った。

 ドアが開いた。そこに立っていたのはマスクドニャーンだった。シャークは確認もせずに入室を許可したことを後悔した。

「いきなり悪いな」

「よお、元王者じゃねえか。這いつくばって負けてベルトを取られた腹いせにでも来たか?」

「違う」

 マスクドニャーンは首を横に振って、後ろ手にドアを閉めて、短い足でゆっくりと近付いてきた。彼はシャークの前で立ち止まり、ピンと耳を立てたまま、丸いアイスブルーの眸をゆっくりと瞬かせた。他人を安心させるよな、柔和な雰囲気だった。先程リングで見た獰猛さが嘘のようだ。

「お前と話がしたかったんだ」

「ああ? オレ様と何を話すってんだ」

「隣、いいか?」

 シャークは無言で空のペットボトルを手繰り寄せた。マスクドニャーンが隣に座った。ミルクのにおいがした。

「お前は今まで対戦してきたどのレスラーよりも強かった。力強さの中に見え隠れする優美さ、スキルの高さ、無駄のないしなやかな動き……実に素晴らしかった。戦い終わった今も気持ちがいいんだ。悪党(ヒール)と戦った気がしない。さっきの戦いで、オレはお前に惚れちまった」

 澄み切った目で見詰められて、シャークは返答に窮した。皮肉のひとつも浮かばなかった。

 ただ、急に隣にいる小さなレスラーが恐ろしくなった。

 リングで散々打ちのめされ、王座から引き摺り下ろされただけでなく、煽られ、辱められ、プライドを傷つけられたのに、何故そんなことが言えるのだろう? 寛容なのか、バカなのか。

「笑えねえ冗談はよせよ」

 マスクドニャーンの澄んだアイスブルーの眸を見ないようにして、シャークは立ち上がった。

「オレ様は惨めな仔猫に構ってられるほどヒマじゃねえんだ」

 背中に視線を感じたが、怒りに満ちた声を浴びることも、呼び止められることもなかった。

 シャークは控え室を出て、しばらく俯いて歩いた。角を曲がると、セコンドと鉢合わせた。

「なにかいいことでもあったか?」

 会話の途中で向けられた何気ない質問に顔を顰める。

「ベルトが獲れたろ」

「うん、そうだったな。よくやったよ」

 途中で足を止め、通路の片隅に設置されていたダストボックスに向けて持っていた空のペットボトルを投げた。ペットボトルは蓋の淵で弾んで、吸い込まれるように中に入った。

 

 冬の夜明けは遅い。六時を過ぎても辺りはまだ暗く、リビングルームのテラス窓から外を見れば、靄が張ったような景色の彼方に、夜の喧騒と欲望の名残のネオンが灯った界隈が見える。

 支度をして、七時きっかりに自宅のマンションを出て、薄れる夜のにおいを吸い込んで、白い息を弾ませ、走り慣れたランニングコースを駆ける。閑静な郊外を抜けて、都市公園の湖畔を臨むベンチでいつものように少し休憩をする……白み始めた空を見上げてゆっくりと息を吐くと、頭の中が空になるようで、シャークはこの時間が好きだった。

 ぼんやりと一週間前の激戦を思い出している時、ふと視線を感じて、シャークは首を巡らせた。

「あ」

 こちらを見詰める男と目が合って、ほぼ同時に揃って声を上げた。

 丁度頭の中に思い浮かべていた、虎の覆面を被った男がいた。思い浮かべた姿と違っていたのは、服装だけだった。今日の彼は黒のウインドブレーカーを着て、グレーのネックウォーマーで首元を覆っていた。

「なんでここにいんだよ」

「お前がここを走ってるって聞いたから来てみたんだ」マスクドニャーンは牙の間から白い息を吐いた。「お前に会いたくてさ」

「……意味わかんねえ」

 シャークは片目を眇めて、ベンチ越しに重なっていた視線を外して、なんとなくマスクドニャーンの足元を見た。靴紐がしっかり結ばれた小さな黄色いランニングシューズは、草臥れて、汚れていた。

「隣、いいか?」

 この間と同じくそう言って、マスクドニャーンは首を傾げた。真ん中に座っていたシャークは中腰で右にずれた。マスクドニャーンは飛び乗るようにして座った。

「同じニュー妖魔シティでもここは静かだよな」

 朝靄に包まれた湖を眺め、マスクドニャーンは静かに言った。「見ろよ、こんな寒いのに鴨がいる。オレは濡れるのと寒いのが苦手だけど、あんな気持ちよさそうに泳がれたらちょっと泳ぎたくもなるよな」

「……ならねえよ」

 胸の羽毛を膨らませて水面に浮かぶ鴨の群れは、マスクドニャーン以上に呑気そうに見えた。

「スパーリングの相手を探してるそうじゃねぇか。お前のセコンドから聞いたよ」

「あの野郎……さてはあいつからオレ様が毎朝ここを走ってることも聞いたんだろ」

「そうだよ。まぁ、そう言うなよ。お前のことを考えてくれてるんだろ。この前の試合でいい勝負だったからってオレにスパーリングの相手を頼んできたんだぞ」

「受けたのか、その話」

「もちろん。またリングでぶつかり合えるなんて、こんな喜ばしいことはないからな。今度は観客がいないんだから、マイクパフォーマンスは必要ないぜ」

 マスクドニャーンは口の端から細い牙を覗かせてニヤリと笑った。先日リングで散々罵ったことを言っているのだろう。

「根に持ってんのか?」

「罵倒はお前のスタイルだから仕方ないが、〝仔猫ちゃん〟は気に入らなかったな。オレは猫じゃない、虎だ」

「オレ様から見ればキュートな仔猫だ」

「その減らず口をリングで叩きのめしてやるから覚悟しろよ」

 ウインドブレーカーのフードの紐を爪先で器用に巻きながら、マスクドニャーンは鼻を鳴らした。

「上等だ。にゃあにゃあ鳴かせてやるよ」

 ベンチの後ろを、犬を連れた老人が通り過ぎた。

「シャーク」

 名前を呼ばれ、視界の端に白い塊が見えて、シャークは意識を隣に戻した。マスクドニャーンは左腕を真っ直ぐに伸ばして、シャークに向けて拳を突き上げていた。丸っこい拳は、柔らかそうな白い被毛に覆われている。

「オレとお前は今日から友だ!」

 熱血漢の高らかな宣言に、シャークは呆気に取られた。

 マスクドニャーンの眸には、澄み切った喜びと屈折した朝日が入り混じって、きらきらと魅力的に輝いている。いい目だと思った。思わず口元が緩む。

「……いいぜ、気に入った」

 マスクドニャーンの手とは反対側の手を軽く握り、向けられた拳に触れた。細かな被毛は、朝の空気で冷たく乾いた肌にはくすぐったかった。重なった拳の向こうにあるマスクドニャーンの眸を覗き込むと、覆面に施された目元の黒い縁取りの向こうで、青い炎が燃え盛っていた。

 その日、シャークは帰宅してからセコンドに連絡をして、いい練習相手を見つけてくれたことに対して遠回しで礼を述べた。

「お前のことだから、仔猫の世話はごめんだとでも言うかと思ったが、安心したよ」

 セコンドの声はとても嬉しそうだった。機械越しでも分かる。

シャークは喉元まで出掛かった「いいダチになれそうだ」という言葉を呑み込んで、電話を切った。

 

 友とは、ジムのリングで再会した。

 彼は空中技を得意とするだけあって身軽で俊敏だ。そして、一撃一撃が容赦なく関節を狙ってくる。一度関節を取られれば、小さな身体からは想像できないような力で攻めてくる。虎とだけあって柔軟性も高い。荒削りな技はひとつとしてなく、卓抜したスピードと磨き上げたスキルで対戦相手との体格差をカバーしてきたことが伺える。

 先日の戦いでも、彼の関節(サブ・ミ)(ッション)には苦しめられたものだ。休む間もなく技を浴びせても、尾を掴んでキャンパスに叩き付けても、彼は立ち上がる。アイスブルーの眸には揺るぎない闘志が宿る。猛虎の粘りを見せられた。

「やっぱりあいつは強ぇな」

 シャークはベンチに座って感想を零した。スパーリングを終え、マスクドニャーンがトレーニングルームから去った直後のことだった。

「だろう? グリーンの頃から知ってるが、彼は素晴らしいレスラーだよ。努力家でもある」シャークの目の前で、ミネラルウォーターのペットボトルの蓋を閉めていたセコンドの目が細まって、一瞬、厳めしい顔つきが穏やかになる。「きっとお前に足りないものを教えてくれると思うぞ」

「あいつから一体なにを教われってんだ」

「そのうちわかるさ、きっとな」

 彼は眉間に皺を寄せて笑って、大袈裟に肩を竦めた。答えをはぐらかす時に見せるいつもの仕草だった。こうなっては自身で答えを見つけるしかないが、それでもシャークは微かな期待を吐き出した。「的確なアドバイスはねぇのか?」

「彼と食事に行ったらどうだ?」

「は?」

 セコンドは破顔した。

 シャークは顔を歪めた。

「デートのアドバイスはいらねえよ」

 閉まっていたドアが開いて、会話は途切れ、ふたりは同時にそちらに顔を向けた。

「タオル忘れちまった」

 マスクドニャーンだった。シャークは黙って俯いた。

「マスクドニャーン、この後食事なんてどうだ? シャークがアンタと飯が食いたいそうだ」

 荒唐無稽な一言に、シャークは口をあんぐりと開けて、咄嗟にマスクドニャーンの様子を窺った。

彼は丸い目をさらに丸くさせると、ウェート機器の端に引っ掛かっていたタオルを取り、首に掛けた。「喜んで行くぜ」

「そりゃよかった。いい店を知ってるんだ。あー、シャーク、なんて名前の店だっけ、ほら、あの国道沿いのレストラン」

 セコンドはニヤニヤと笑っていた。なにを考えているかは知らないが、マスクドニャーンを連れて行くしかないようだった。

 

 一時間後、シャークは行きつけの店の窓側のボックス席でマスクドニャーンと向かい合っていた。

「お前の行きつけの店っていうから、もっと騒がしいところを想像してたぜ。いい雰囲気の店だな」

「騒がしいところは好きじゃねえんだ」

 熱いコーヒーを啜る。シャークはできるだけ、他の客やカウンターにいるマスターとウエイトレスを見ないようにしていた。

 夜十一時を過ぎた今、シャークとマスクドニャーン以外に客は他に三組いたが、うち二組は管轄の違う警察官だった。シャークはここには夜しか来ないが、夜になると夜勤の警官達が休憩のために立ち寄るので、常連客ともなれば、厭でも顔見知りになる。実際「シャークの相棒か?」と彼らは興味津々だったし、化粧の濃い馴染みのウエイトレスは、マスクドニャーンを見て頬を緩ませて夢中になっていた。

「ホットドッグが美味いんだってな」

 グラスに入ったミルク多めのアイスティーをマドラーで掻き混ぜながら、マスクドニャーンは言った。細長いグラスの中で、溶けかかった四角い氷がぶつかって、からからと乾いた音を上げた。

「今まで食ってきた中でもここのが一番だ。毎日食ってもいい」

 シャークは頬杖を突いて、口の端を持ち上げた。好物であるホットドッグの話題を振られれば、いつまでも不機嫌ではいられない。

 老年のマスターが営む店の看板メニューは、創業当時からあるボリュームのあるホットドッグだ。マスター自慢の手作りのソーセージは茹で上がっても弾けんばかりに丸々としていて、両端がバンズからはみ出し、噛み切れば肉汁が溢れ出す。細かく刻まれたいっぱいの野菜は瑞々しくて酸味もほどよい。できたてにケチャップとマスタードをたっぷりとかけて頬張れば、誰もが美味いと頷く逸品だ。最近はグルメ雑誌や旅行雑誌に掲載されることが増え、ホットドッグを求めて行列ができることもあるという(店をたたむのはまだ先だなと、マスターは照れ臭そうに言っていた)。

「ハァイ、お待たせしました」

 食欲をそそるにおいがして、ウエイトレスがやってきた。待ち侘びたホットドッグがふたり分、それぞれ、いつもの白い丸いプレートに載って運ばれてきた。

「あとこれ、デザート。うちからのサービスね」

 テーブルに小振りのココットが置かれた。プリンだった。濃いカラメルが、天井のスポットライトの金色の明かりを反射させていた。

「気前がいいな」

「シャークさんが他の人とうちに来たのは久し振りですもの。なんだか嬉しくて。お客さん、甘いものはお好き?」

「好きだよ」マスクドニャーンの尻尾が波打った。

「よかった。とっても美味しいのよ。ゆっくりしていってちょうだいね」ウエイトレスは微笑んで、トレイを胸に抱いて、他の客のところへ行った。

「すげえボリュームだな」

 シャークが片手で掴める大きさのホットドッグを、マスクドニャーンは両手で持ち上げて頬張った。

「……美味い!」

「だろ? これが食いたくてここに来る」

「オレ野菜嫌いなんだけど、ここのは食えるぞ」

 口の端から飛び出たレタスを吸い込んで、彼は大層満足そうに言った。

 マスクドニャーンはプリンも気に入ったらしく、あっという間に平らげた。自分の分のプリンもやると、彼はウエイトレスが見たらメロメロになるであろうとびきり愛くるしい笑みを浮かべた。

――セコンド(あいつ)以外の奴と飯を食うのはいつ振りだ?

 シャークはそこはかとなく考えて、指の腹についたケチャップをペーパーナプキンで拭き取った。

 共通する話題といえば、職業のことくらいしかないだろうと思っていたが、不思議と会話が弾んだ。注文した料理がきて、皿がすべて空になる頃には、古き良き友とやり取りをしているように思えた。

 店を出ると日付が変わる頃だった。静まり返った広い駐車場には、まばらに車が停まっていた。

「あー、食った食った」張った腹を摩って、マスクドニャーンはうっとりと溜息を吐いた。

「気に入ったか?」

「ああ。いい店だな。ウエイトレスのねーちゃんも可愛い」

「あいつもお前を気に入ったらしい。あんな緩んだ面見たことねえよ」

「今日はありがとな。また誘ってくれ」

 道脇に立った街灯の下で、マスクドニャーンははにかんだ。こうしてみれば、愛くるしい猫妖怪だ。

「それじゃ、またな」

 マスクドニャーンが踵を返した。小柄な影が傾いて、シャークの足元に張り付いた。

 頭の先から目に見えないなにかが抜けるような、蒙昧とした感覚がシャークを襲った。心地よい夢から醒めたような虚しさに似た感覚だった。

「マスクドニャーン」

 シャークはほぼ衝動的に彼を呼び止めていた。吐き出した白い吐息が夜風に流れていった。マスクドニャーンは立ち止まって振り返り、じっと言葉の続きを待っている。

「あー……」呼び止めておいてなんと言えばいいのかわからなかったが、それでもシャークは続けようとした。「気を付けて帰ってくれ。明日もスケジュール詰まってんだろ」

 喉の奥から出た言葉は、他愛のないものだった。

「明日はオフなんだ。お前は?」

「オレ様もオフだ」

「マジで?」

 覆面の黒いアイラインが歪む。マスクドニャーンは笑っていた。彼は鷹揚とした足取りで歩み寄って来て、腰に手を当てて、シャークの目の前で胸を反らした。

「それじゃあ、せっかくだし、もう一軒行こうぜ」

 先に潰れたのはマスクドニャーンだった。

 飲み掛けのビールを放置してカウンターに突っ伏した小さな虎の隣で、シャークは何杯もビールを煽った。

 酔っ払いが絡んでいた娼婦と店を出ていき、テーブル席でちょっとした喧嘩が始まり、野次馬がはしゃぎ、憤慨したマスターにまとめて追い出された。そんなくだらない煙たく生臭い喧噪の中でも、マスクドニャーンは熟睡していた。とうとうバーの閉店時間になり、シャークはマスターに代金を払って、仕方がないので、炭酸の抜けたビールの前で熟睡しているマスクドニャーンを肩に担いで外に出た。

 見かけによらず、彼はずっしりと重たかったが、身体は猫らしくぐにゃりとしていて温かかった。燃えるような色をした豊かな被毛の下には、無駄のないしなやかな筋肉がついている。朝日を浴びた身体からは、店に充満していた煙草のにおいがした。

「いい加減起きてくれよ」

 相変わらず反応はなかった。シャークの肩に腹這いになったまま、マスクドニャーンは呑気に寝息を立てている。垂れ下がった二又の尻尾が、歩くシャークの動きに合わせて小刻みに揺れた。

 通りがかったタクシーを拾って、マスクドニャーンを後部座席に転がした。

「起きろって」

 返事はない。シャークは舌打ちをして、狭い後部座席に上半身を突っ込んで、横たわるマスクドニャーンの垂れた耳に手を伸ばした。

「起きろ、タイガー!」

 耳先を摘まんで声を張り上げると、タクシーの運転手の肩が跳ねた。車体が軋んだ。お前じゃねえよと、シャークは胸中で毒吐いた。

「ニャンだ……」

 不機嫌そうな寝起きの声が車内で弾んで、酒臭い息が鼻先にかかった。

「家に送ってやるから、さっさと住所を言え」

「うーん? オレんち? ……オレんちはなぁ……」

 マスクドニャーンは途切れ途切れに住所を言った。運転手は復唱して住所をカーナビゲーションに入力すると、バックミラーの中からシャークを一瞥した。不安そうな目をしていた。

「乗っていきますか?」

「悪いが、こいつだけ乗せてってくれ」

「そうですか。わかりました」

 運転手の哀し気に瞬く目に安堵感が過ったのを、シャークは見逃さなかった。多めにチップを払って、明け方の街を走り去るタクシーを見送った。

「……ったく、世話焼かせやがって。クソタイガー」

 吐き出した言葉とは相反して、シャークは笑っていた。

 朝日が眩しかった。ビルの間から見える狭い空は青い。一日はとっくに始まっていた。シャークの一日は、ようやく終わろうとしているが。

――帰ったら一眠りするか。

 軽くなった肩をぐるりと回して、朝靄に覆われた街を歩き出した。

 

 帰宅して、シャワーも浴びずにソファで一眠りして目覚めると、部屋の中はまだ明るかった。

 休日があとどれくらい残っているのか確認するために、テーブルに置いたスマートフォンを手繰り寄せる。ディスプレイに表示された時刻は午後二時三十二分だった。

 よく見ると、メールを一件受信していた。メールボックスを展開する直前に、マスクドニャーンと昨晩バーで連絡先を交換したことを思い出した。

おはよう。よく眠れたか? 

さっき目が覚めたんだが、昨日の記憶がない。

起きたら家にいてびっくりした。

迷惑かけたと思う。悪かった、礼は今度する。

 文字を目で追って身体を起こした。メールは正午前に届いていた。どう返すべきか、シャークは悩んだ。内容を考えてみたが、どうしても淡白なものになってしまう。

 考えあぐねていると、手の中でスマートフォンが震えた。マスクドニャーンからの着信だった。通話ボタンを押して耳に押し当てる。

『シャーク?』雑音のない、クリアな声が届いた。『起きてたか?』

「今起きたとこだ」

『悪い、起こしたか』

「いや、ちょうどお前からのメールに返信するところだった。電話の方が手っ取り早くていいな」

 シャークは咳払いをひとつして、ソファの背凭れに寄り掛かって足を組んだ。

『昨日は面倒を掛けたな。ごめん。久し振りに飲んで浮かれちまった』

「気にすんな。オレ様の肩でゲロ吐いたらゴミ捨て場にブン投げて帰ろうかと思ったけどな」

『家の玄関で目覚めてよかったぜ。色々話せて楽しかった。ありがとな。また飯に行こう』

「次は潰れても送ってやらねえからな」

『大丈夫だ。同じヘマはしねえ。今度お前が酔ったら今度はオレが介抱してやるよ』

「嘗めんなよ、タイガー。オレ様はお前より強いぜ」

『やっとオレのことを虎だと認めたな?』

「昨日お前がそれで返事したんだよ。それともニャイガーの方がいいか?」

『オレは猫じゃない。虎だ。よし、猛虎の実力を見せてやるぜ。今度は飲み比べで勝負だ』

「望むところだ。いつでも相手になってやる」

『お前との勝負は面白いなあ。負けないぜ』

 マスクドニャーンの声は、寝起きの頭に浸透した。

『今日はゆっくり休んでくれ』

「お前もな。二日酔いだろ、どうせ」

『一眠りしたら抜けたよ。んじゃ、またな』

 二言三言交えて通話を終え、シャークは長い息を吐き、天井を仰いだ。それから、他人に興味を抱き始めた自分に驚いて、自嘲気味に口の端を吊り上げた。

 厳しい寒さもピークを迎え、雪解けの季節もあっという間に過ぎた。日差しが強烈な季節が近付いていく中で、次の試合に向けてのトレーニングも順調だった。

 一方で、マスクドニャーンとの交流は、リング以外でも深まっていった。

 今日も彼と夕食に行くことになっていた。

 いつものようにシャワーを浴びてからロッカールームに入ると、マスクドニャーンがロッカー前のベンチにちょこんと座ってチョコボ―を食べていた。

「待たせたか?」

 マスクドニャーンは首を横に振って、替えのタオルを投げて寄越してきた。「チョコボ―二本も食っちまったけど、そんな待ってない」

「好きだよな、それ」

「オレの大好物なんだ」

 彼は残っていたチョコボ―を一気に頬張った。

「右頬にチョコついてるぞ」

「えっ」マスクドニャーンは前腕でごしごしと大雑把に右頬を拭った。「取れたか?」

「取れた」シャークは自分のロッカーを開けて、中の荷物を取り出し、振り向かずに言った。

「飯に行く前にヨップルストアに寄って行っていいか?」

「ヨップルストアだと?」反射的に振り返ると、マスクドニャーンの口元にはまだチョコがついていた。擦った所為でさっきよりも酷い。褐色のラインが真っ白い被毛を汚している。

「ウォッチの調子が悪いから視てもらおうかと思って」

「ひとりで行ってくれ。オレ様は行かねえ」

「ネットで事前予約したからそんなに待たないと思うんだけど、それでも……?」

「行かねえ。絶対に行きたくねえ」

「そうか……わかった。じゃあ先に店に行っててくれ。すぐ行くから」

「おう。その前に頬についたチョコをどうにかしろよ。まだついてるぞ」

「さっき取れたって言ったじゃねえか……」

マスクドニャーンは喉の奥で唸った。

 ジムの近くの店で、先にビールだけ頼んでマスクドニャーンを待った。中身がグラスの半分になった時、彼はやってきた。

「どうだった?」

「修理に出してきた。一週間くらいで直るって」

 どこか満足そうな表情で向かいに座ったマスクドニャーンにメニュー表を渡した。

「直るならよかったじゃねえか」テーブルに頬杖を突いて、手元のグラスを傾ける。

「明日ヨップル社の新製品が発表されるらしいぜ。店で歴代の商品のCMがずっと流れてたから待ってる間に観てたんだけど、スティーブ・ジョーズって昔から変わらないな。若々しいっていうか」

 テーブルに置いたメニューをめくりながら、マスクドニャーンは飄々と続けた。

「修理に出さずに新しいのを予約した方がよかったかな? CMでジョーズが持ってるのを見ると欲しくなってくる」

「タイガー、その話はもういいだろ」

「んー? シャークもヨップル社の製品使ってたっけ?」

 彼はメニューから視線を外さない。

「ヨップルは好きじゃねえんだ」シャークは言葉に詰まって顔を歪めた。「それよりなにを食うか早く決めてくれ。腹が減ってんだからよ」

 ウエイトレスが注文を取りに来てようやく、ヨップル社の――スティーブ・ジョーズの――話は終わった。

 

 胸に込み上げた苦い思いを流し込むために、ずいぶんと飲んでしまったことを、シャークは後悔していた。

「お前らしくないな。大丈夫か?」

 店を出てすぐに、マスクドニャーンは憂いのこもった視線でシャークを見上げた。

「平気だ」

 シャークは身体を屈めてマスクドニャーンの頭を撫でて、圧し掛かる倦怠感に抗うように背筋を伸ばした。

 紺碧の夜空に、獣の鉤爪のような月が浮かんでいるが、ぼやけてよく見えない。試合で頭をキャンバスに叩きつけた直後のように、視界は不安定だった。

「送ってってやるよ。前に言ったろ、オレが介抱してやるって」

「まだ飲める」

「無茶すんなよ。ヤケ酒じゃあるまいし」

「ヤケ酒だよ」

「ならますますお前らしくないな。なにがあったんだよ」

 胸の前で腕を組んで、マスクドニャーンは頭を傾げた。首元で鈴が鳴った。

「お前があいつの話をするから気分(わり)ィんだよ。責任取って朝まで付き合え」

「あいつって?」

「オレの親父だ」シャークは店の壁に寄り掛かった。

「なに言ってんだ? オレはお前の親父なんて知らねえし――」言葉は続かなかったが、真っ直ぐにシャークに向いていた視線が逸れて、左右に泳いだ。「まさか……嘘だろ」

 マスクドニャーンの動揺で震えた声には、一握の確信が混じっていた。緋色の被毛が逆立って身体が膨らんでいる。

「そのまさかだ」シャークは薄ら笑いを浮かべた。腹の底で渦巻いていた憎悪が、吐き気とともにせり上がってきた。「スティーブ・ジョーズはオレの親父だよ」

 都市公園の見慣れた風景を前に、ふたりはあの時と同じベンチに、並んで座っていた。あの時と違って、目の前に広がるのは静謐に満ちた雪景色ではなく、生き生きとした灼熱の夜だ。あちこちの繁みで虫が騒ぎ立てている。まるで試合会場の観客席を埋める、意気軒昂とした観客達のように。

「……聞いてもいいのか、親父さんのこと」

 風に運ばれて聞こえていた街の音が途切れたように思えた。

 マスクドニャーンは膝に手を載せて、真っ直ぐに湖畔を見据えたままだった。

 シャークは彼の視線の先を追った。水面は夜に染まって、月と星空を映し出していた。群れを成して泳いでいる鴨はいなかった。

「お前になら話してもいい。親父のことを話すと、厭でもオレのことを知るだろうけどよ」

 マスクドニャーンはシャークの方を向いてから頷いた。眸に強い意思が瞬いた。

 シャークは乾いた夜気を鼻から吸い込んで、ベンチの背凭れに寄り掛かった。

「タイガー、お前が覚えてる一番古い記憶ってなんだ?」

「一番古い記憶?」

 唐突な質問に、マスクドニャーンは目を丸くさせて、首を傾いだ。

「うーん、おふくろに抱き上げられてる時のものかな。お前は?」

「オレは親父の背中を見上げてる記憶が一番古い。それが限界だ。それ以上前のことは思い出せねえ」

 散らかった子供部屋。

 窓から差す穏やかな陽光。

 逆光に立つ父親の大きな背中。

 目を閉じて記憶の濁流を辿ってみる。瞼の裏で浮き上がった記憶は、古い映画のワンシーンのように色褪せている。父親の背中も、壁に貼った絵も、お気に入りだったロボットのおもちゃも灰色だ。

「ガキの頃は親父を尊敬してた時もあった。起業して一心不乱に働いて、IT業界に革命を起こして、皆に夢を与えた。すげえなって思ったよ。自慢の親父だった。だけどな、あいつは会社がでかくなるにつれ家庭を省みなくなった。クリスマスにも帰ってこねえ。オレはいつからか親父が嫌いになった。あいつは父親らしいことをなにひとつしなかったんだよ。なのによ、やんちゃして問題を起こした時だけ父親面しやがるんだ。クソ食らえだ」

 握り締めた拳に力が入った。

 幼少期の憧れは、少年期には不満に変わり、青年期には怒りへと歪んだ。今も尚、父親への憎悪は心に影を落としている。

「あいつはてめえの成功のために家族を切った。夢もクソもねえ。オレ様は親父への反抗心から荒みきった。おふくろですら息子であるオレ様を煙たがった。気が付けばダチもいなくなった。で、今じゃ捻くれてこのザマだ。笑えるだろ。ヒールレスラーになったのだって、要は鬱憤晴らしだ。愛国心だの正義だの、どうのこうのきれいごとを抜かす奴は気に入らねえ。ぶちのめしたくなる」

 マスクドニャーンは黙って話を聞いていた。時々、ピンと立った耳が小さく左右に揺れた。

「あいつみたいに薄情な男にはなりたくねえと思ってたが、実際にそうなっちまった。タイガー、お前はオレ様をいい奴だとでも思ってるかも知れねえが、そんなできた妖怪じゃねえんだよ。いつかお前もオレ様を憎んで……呆れて去るだろうよ」

「憎んだりしないさ」

「憎むさ」

「憎まない。オレにとってお前は――」言葉が途切れて、沈黙がふたりを繋いだ。時が止まって、旺盛な夏の夜気が死んでしまったようだった。「お前はオレのかけがえのない友だ」

「なんでお前はそうやってオレ様を慕う? 哀れみか? 同情ならいらねえぞ」

 月明かりがマスクドニャーンの哀しみの相貌を照らし出した。

「言っただろう、オレはお前に惚れたんだ。だからお前のことを少しでも知りたい。こうやって親父さんとの確執について話してくれたことだって嬉しいんだ。お前の過去だってオレのものでいい。オレは……お前と未来を作りたい」

「……ッ」

 マスクドニャーンの言葉は、ひび割れた大地が恵みの雨で濡れるように、乾いた胸に閾値を与えるようだった。

「一番古い記憶が親父さんの背中を見てるものだって言ったよな? オレはお前が親父さんに抱いてるのは憎しみだけじゃないと思うぜ。今はきっと難しいだろうけど、なにかきっかけがあれば、お前の中の蟠りが晴れる時がくるかもしれない。それに、お前は薄情なんかじゃない。他人の心の痛みを知ることができる妖怪だ」

「バッ、バカ言ってんじゃねえよ」

「意地っ張りなお前も好きだぜ。でも、オレの前でくらいもっと素直になってくれよ。ありのままのお前でいてくれ。甘えてくれたっていい。オレを負かした唯一の男だ。オレの喉を撫でさせてやってもいい。ほら、撫でろよ」喉を反らしたマスクドニャーンの首元で鈴が揺れた。

「……そこまで言うなら撫でてやるよ」

 シャークは鼻を鳴らして、マスクドニャーンの頬に恐る恐る触れた。和毛に覆われた頬はほどよい弾力があった。掌を通して熱が伝わってくる。色褪せた思い出に埋もれた温もりも、こんな風に、心が安らぐ温かさだっただろうか。

 彼に触れたい。胸を焦がす一握の切望は、遠い昔に置き去りにしてきた感情を呼び戻した。

(けい)(ぜん)。悲哀。憂惧。喪失感。劣等感。そして、愛情。

 色を失った感情は押し寄せ、せめぎあい、入り混じって、めまぐるしくシャークを責め立てた。心の片隅で息づいていた孤独が流されていく。

 頬を撫でる手を止めると、マスクドニャーンはうっすらと目を開けて、催促するように首を傾いで頬を押し付けてきた。彼の透き通った薄い色の眸は、無垢だった。

「タイガー……オレは……」

 声が出せないほど息苦しくなって、シャークはマスクドニャーンの背中を掻き抱いた。縋るような抱擁の中で、いつかに嗅いだ甘ったるいミルクのにおいが鼻腔を刺激する。

「お前とダチでよかった」

 心の底から湧いた言葉を吐き出し、シャークは目を固く閉じた。

 背中に小さな手が回り、強く、強く抱き締められた。

 

 マスクドニャーンとは、食事に行ったり、自宅に呼んで飲み交したりと、親睦を深めていった。良き友であり、好手敵である彼にいつしか心を許し、唯一気持ちを吐露できる存在になっていた。だが、互いに試合が近付くと、会う時間はめっきりと減った。

 時が経つのは早いもので、マスクドニャーンとリングでぶつかりあった日から一年が経とうとしていた。今日(こんにち)まで、他のレスラーとチャンピオンベルトを賭けた戦いは何度かあったが、ベルトは変わらずシャークが保有していた。いつの日かマスクドニャーンと再戦する日のためにも、敗れるわけにはいかないのだ。

 最後にマスクドニャーンと会ったのはいつだろう? 試合間近の調整も終わり、コンディションもいい今、自宅に招いて、のんびりと過ごすことくらいは許されるだろう。試合前の最後のオフ(チャンス)なのだから。

 マスクドニャーンに誘いのメールを送ると、返信はすぐにきた。本文には改行もなく「今から行く」とだけ書かれていた。

 スマートフォンのディスプレイから視線を外し、ブラインドの上がった窓の外へと移す。四角く切り取られた見慣れた景色は光が欠けていた。才能のない画家が灰色の絵の具を重ねて塗ったくったような、まだらな厚い雲が空を覆っていた。

 夜になる前に、雨が降りそうだった。

 

 キッチンでインスタントコーヒーを淹れ、マグカップを持ってソファに戻ると、マスクドニャーンは短い脚の間にクッションを挟んで抱きかかえ、顔を半分埋めていた。前方に伸びた手にはテレビのリモコンがあった。彼は上目に壁際の液晶テレビの画面を見詰め、小さな手で器用にボタンを押して操作していた。

「ほらよ、砂糖とミルク多めな」

 ソファの前のローテーブルにマスクドニャーンのカップを置くと、濃い乳白色の波紋から立ち込める細い湯気に乗って、甘ったるい香りが漂った。

「サンキュー」マスクドニャーンは身体の横に寝かせていた二股の尻尾を持ち上げて波打たせた。「なに観る?」

「お前が観たいやつがあるならそれでいい」シャークは彼の隣にどっかりと腰を下ろし、寛いだ。

「ミスター・ムービーンの最新作が観たい」

「あー、この前アカデミー賞獲ったやつか?」

「そうそう。もう配信されてるんだ」

「決まりだな」

 言い終わる前に、シャークはカップに口付けて熱いブラックコーヒーを一口啜った。マスクドニャーンは頷いただけだったが、長い尾はくねっていた。彼は無意識のようだが、嬉しい時は必ずそうすることに、シャークは気付いていた。

 暇潰しになればいいと動画配信サービスに入会したものの、大して作品を観たことはなかったが、こういう時には便利だ。

 映画が始まり、いつの間にか、外で雨が降り出していた。

 

 エンドクレジットの途中、二杯目のコーヒーを淹れるためにキッチンに行った。長い映画だった……まあ、面白かった。

 スプーンでカップの中を掻き混ぜながら戻ると、ソファにマスクドニャーンはいなかった。立ち止まって視線で彼を捜した。ちょうどソファの陰になっていて気付かなかったが、彼は腰に手を当ててテラス窓の前に立って景色を眺めていた。

 外はすっかり暗くなっていた。霧雨の中、遠くでは街の明かりがくすぶっていた。

 銀のスプーンがカップに当たって、カチャカチャと硬い音が跳ねる。マスクドニャーンの三角形の耳が左右に傾いた。

「あ――シャーク」振り返った彼と視線が重なった。「小雨のうちに帰ろうかと思う」

「……帰る?」

 飲む気にはなれず、テーブルにカップを置いた。

 マスクドニャーンのそばに寄って、倣って外に視線を留める。バルコニーは濡れていた。手摺の下部には滴が連なっている。南向きの窓は、天気のいい日はひねもす暖かな日が差しこむが、今、室内に届くのは、陰湿とした雨音と冷たい夜の色だ。

「濡れるのは嫌いだろ? 泊まって行ったらどうだ」

「別に平気だ。お前だって、明日の都合があるだろ? 早めに休んでくれよ」

 彼の気遣いはありがたいものだったが、今のシャークにとっては、残酷に感じられた。

「どこにも行くな。ここにいてくれ」

「けど……」

「気にするなよ。今日はオフだぜ」

 マスクドニャーンの脇の下に手を差し込んで抱き上げた。首の後ろの被毛を乱すように鼻面を埋めると、安らぐミルクのにおいがした。

 マスクドニャーンを脇に抱えて、窓の横に垂れ下がるブラインドのコードを調節して、ブラインドを下ろした。

 

「ねみい」

 ソファの背凭れに腹這いになって長い尾を優雅に波打たせていたマスクドニャーンが、頭を擡げて何度目かのあくびをした。マズル周りの厚い皮膚が持ち上がって下顎が下がると、上顎の長く鋭利な白い双牙が薄桃色の裂け目に並んでいるのが見えた。

 マスクドニャーンの下で寝転がったシャークは、肘掛けに載せた組んだ手と頭をそのままに、つられてあくびをした。

 壁掛け時計の短針は、もうすぐ午前一時を指そうとしていた。

 テレビはとっくに沈黙している。

 なにをするでもなく、ソファに横たわってだらだらしているうちに、夜は眠気と気怠さを絡ませて更けていた。聞こえていた雨音も、いつの間にか途絶えていた。

「片付けてそろそろ寝ようぜ」

 マスクドニャーンは起き上がろうとしたようだが、テーブルの惨状を見て動きを止めた。

 潰れたビール缶、チョコボーの包み紙、デリバリーしたピザとサイドメニューの空き箱、未開封のケチャップ、使用済みのペーパーナプキン……細やかなものでも、晩餐の後ほど憂鬱なものはない。

「テーブルきったねえな、拭くもんねえの?」

「ねえな。あってもどこにあるのか知らねえ」

「なんだそれ、自分んちだろ?」

「掃除や洗濯はいつも家政婦に任せてる」

「家政婦雇ってんのか?」

「家事はなにひとつできねえからな」

「できないっていうか、やらないだけだろ」

「どっちも変わんねえだろ」

「フウン。どうりでキレーなわけだ」

「だろ? よくやってくれてる。さて、オレはここで寝るから、お前は寝室で寝てくれ。生憎客室はトレーニングマシン(先客)で埋まってる」

 マスクドニャーンは両手を突いて身体を起こした。ソファの背凭れに跨る姿は猫、いや、虎らしくない。

「一緒に寝ないか?」

「オレがぬいぐるみと一緒におねんねするように見えるか?」

「今のオレには口の悪いバカでかいぬいぐるみが必要なんだよ」

「寒いから添い寝して欲しいってんなら、素直に言えよ」

「勘違いすんな。オレにはきっとお前のベッドはデカいし、家主がソファで寝るのは申し訳ないって意味だ。オレは端で丸くなれればいいんだ」

「可愛くねぇ奴だな」舌打ちをして、シャークは組んでいた手と足を崩し、のろのろと立ち上がった。

 散らかったテーブルに背中を向けて手を広げる。

「さぁ、仔猫ちゃん、ねんねの時間ですよ」

「仔猫じゃねえって言ってんだろ」

 背凭れに二本足で立ち上がって飛び掛かってきた虎を受け止めると、マスクの上から両頬をつねられた。仕返しに三角形の小さな鼻を摘まんで――二人で噴き出した。

 寝室のドアを開けると、冷えた空気がふたりを迎え入れた。廊下から差し込む明かりだけでも室内は十分に見えた。ベッドの脇のナイトテーブルに置いたランプに明かりが灯ると、部屋の中はオレンジ色の柔らかい光に照らし出された。

 マスクドニャーンをベッドの淵に降ろすと「やっぱりオレひとりじゃ広過ぎるくらいだ」彼は脱いだブーツを律儀に揃えてから、ベッドの真ん中で四肢を投げ出した。

「寝相が悪かったら床に落とすからな」

 中途半端に開いたままのカーテンを閉めようとベッドを離れる。熟睡できるようにと購入した遮光性の分厚いカーテンは、夜の冷気を受け止めていた。布が氷のように冷たい。

「……おっ」

「どうした?」

「雪が降ってる」

 シャークは両眼を瞠った。夜の色が色濃く刷かれた目の前を、大粒の雪がはらりはらりと舞い落ちていた。

「初雪だな」

「明日の朝は冷えるだろうよ」

 カーテンを閉め切って、次に、廊下の明かりを消しに行った。

 身震いする彼のために暖房をつけて、寝室のドアを閉めて振り返ると、マスクドニャーンは既にブランケットとキルトをすっぽりと被って、頭だけ出していた。端っこで丸くなれればいいと言っていたのは、どこの誰だったか。

 掌に収められそうなサイズのブーツの隣に自分のブーツを並べて、シャークもベッドに入った。

 ランプの明かりを消すと、室内は完全な暗闇に包まれた。

 天井の隅から温風を吹かす空調機の、聞き慣れた無機な稼働音だけが聴覚器官に届いた。

 

 うつらうつらし始めた頃、空調機とは別の、こもった微かな音がそばでした。

 マスクドニャーンがごろごろと喉を鳴らしていた。

 布が擦れ、二の腕に弾力と体温が押し当てられる。和毛がくすぐったい。

「くっつくなよ」

「寒いんだ」

 シャークは重くなった瞼を持ち上げた。目の前は真っ暗だ。物の輪郭すらわからない。

 手探りでマスクドニャーンの首の後ろを掴み上げ――猫は首の後ろ側を摘ままれると脱力して無力になるそうだが、虎にも効果があるらしい。なにも見えないが、薄く柔らかい皮が伸びて、重力に従って丸っこい身体が垂れ下がっているだろう――そのまま引き剥がすこともできたが、手繰り寄せて自分の胸に下ろし、キルトを被せてやった。

「これで少しはあったけえだろ」

「うん、暖かい」

「そうかよ。さっさと寝な」

 指先でマスクドニャーンの頭を撫で、項の被毛を摘まみ、背中を叩いた。呼吸に合わせてゆっくりと上下するなだらかな曲線から指先を通して伝わってくる温もりは、甘ったるい安閑へと変わっていき、眠気を誘った。

 この先ずっと、彼との心地よい時間が続けばいい。暗闇の中で、シャークは静思した。御伽噺のような都合のいい考えが浮かんでは消え、冷灰に似た寂し気な余韻を残すが、マスクドニャーンのことを思うと、消しきれなかった埋み火が瞬き、燃え盛る。胸を焦がす感情を抑え込もうとするほど、炎は勢いを増した。

――どうすればいい? どうするべきだ?

 シャークは自問したが、答えが見付かる前に口を開いていた。

「……なあ、タイガー」

「ん?」

「誰かを好きになったことはあるか?」

 胸の上で弛緩していたマスクドニャーンの身体が一瞬強張った。

「それは〝信頼(ライク)〟って意味での好意か? それとも〝愛情(ラブ)〟?」一拍置いて、戸惑いを含んだ問い掛けが返ってきた。

「後者だ」

 暗闇に目が慣れた頃、彼が息を吸う気配があった。

「ある」

 風に吹かれ揺れる蝋燭の火のような、不安定な声音だった。

「そいつは羨ましい。オレはなかった。お前に会うまではな」

 胸の上の濃い影が揺れる。マスクドニャーンの手に力がこもるのを感じた。

「まったく、らしくねえんだ。他人のことを知りたいと思ったのも、誰かと時間を共有したいと思ったのも、独占したいと思ったこともねえのに。不思議で仕方ねえ。失うものはなにもないと思って生きてきたが、どうしても護りたいものができちまった」

 今まで言葉にしてこなかった気持ちを吐露すると、胸をかき乱すほどの渇望は、とめどなく溢れ出た。

「オレはお前が欲しい」

 人はそれを傲慢だと言うかもしれない。

 孤独な男の切望だと嘲笑するかもしれない。

 それでも――彼が欲しい。

 心が満たされれば満たされるほど、強く願ってしまう。

 バラバラになったパズルのピースを集めてひとつひとつ嵌めていくように、自分の中の空白を埋めてくれていた彼は、かけがえのない存在になっていた。 

 彼を信頼し、慕い、求め、触れた――時間をかけて深まった唯一無二の絆は、愛と呼ぶには足りないのかもしれないが、友情と呼ぶには甘美な感情が複雑に絡み過ぎている。

「オレのものになってくれ。必ず、護る」

「……オレで、いいのか?」

「ああ。お前がいい」

 暗闇の中でマスクドニャーンの尻尾がくねり、シャークの腹を掠めた。

「そっか。オレを必要としてくれているのは嬉しい。だけどオレは護られなきゃいけないほど弱くねえ。お前の隣に立っててやるよ。倒れそうになったら頼ってくれ。オレもお前に甘える。シャークが好きだからな。誰よりも」

「そりゃあ、〝信頼(ライク)〟か? 〝愛情(ラブ)〟か?」

「……わかってるくせに」

「なんだ、照れてんのか?」

「だって、あんなストレートに言われたら照れるに決まってるだろ」

「気付くのに時間が掛かっちまったが、オレは欲しいものはすぐにでも手に入れたい性質(タチ)でな」

「オレはものじゃないぜ」

「わかってる。でも、もうオレのもんだ」

「そうだな。お前のものだ」

 マスクドニャーンのしなやかな肢体が身体に密着する。身体の下でベッドスプリングが軋んだ。心地よい熱は血潮とともに身体中を巡った。

 マスクドニャーンの柔らかい身体を抱き締めて、ほのかに漂うミルクのにおいを鼻から吸い込み、シャークは目を閉じた。

 穏やかな夜に溶けだした友情は、緩やかに無垢な情愛へと形を変え、欠けることのない揺るぎない幸福は、確かに腕の中にあった。

 外では冷涼とした夜気が張り詰め、深々と降り続く雪がニュー妖魔シティを白く染め上げていった。

 どこか遠くで、パトカーのサイレンが鳴っている。規則的なくぐもった音は、高鳴る鼓動にも似ていた。