庭から聞こえてくる秋の夜長を賑わす虫の声を背景に、緑茶を啜った。
ほっと吐息をついて湯呑みを両手で包み込むと、安堵する温かさが掌に広がった。今夜は冷える。
まだ半分残っている緑茶を見詰め、つい2時間ほど前にイタリア料理店で一緒に食事をして、駅前で別れた黒須のことを考えていると、不意に突き刺すような痛みが眼球の裏で弾けた。
「痛っ」
反射的に顔を顰めてこめかみを押さえる。痛みはすぐに引いて「まーたアイツのことを考えてるのか」目の前で呆れたような声がした。
視軸を上げると、Fがいた。彼はまるで最初からそこにいたかのように胡座を掻いて僕を見ていた。
「アイツとは寝てないんだよなあ」
Fは顎を撫でた。今のが質問なのか、独り言なのかわからなかったが、唇を引き結んで小さく顎を引くことしかできなかった。
彼の言うことは事実だった。黒須とは互いを想い合う深い仲だが、肉体関係はない。それどころか、キスだって——悪夢を見て飛び起きて動揺する僕の唇を塞いで平常心に戻してくれたことが今の関係に至るきっかけだったが、あれは僕の為にしてくれたことなので数に入れない——していない。
黒須から与えられる唯一無二の親愛と慈しみが心地よかった。同じベッドで眠るだけで十分だった。抱き合うだけで満たされた。名前を囁き、強く抱き締めることが僕の愛情表現だった。幼く、拙い表現かもしれないが、他者と蜜月になったことのない僕にとって、黒須との関係は初々しく、瑞々しく、尊いものだった。
しかし、官能による昂揚感と衝動を黒須が堪えているのを知らないわけではない。視線にこもる熱で伝わってくる。
「黒須になら抱かれてもいい。だけど、そんな経験をしたことないから踏み出せないんだ。いや、それどころか、僕たちはキスだってしたことない。端緒がわからない。どうすればいいと思う?」
「簡単だ。シンプルに誘うんだ。抱いてくれってな。イチコロだと思うぞ。あとは黒須が勢いのままにお前を押し倒せば……」
「黒須はそんなことしないよ」
「どうかな」Fは喉の奥で笑った。「試してみろよ」
――今夜は、うちに来ないか。ご馳走するよ。
いつものように、人々が行き交う某駅の構内で落ち合って間もなくして、乃木さんはそう言って首を傾げた。
唇の隙間から吐息が漏れた。夢でも見ているのかと思った。迷うことはなかった。「はい」一拍置いて顎を引く。「食べたいです、乃木さんの手料理」
本音だけでなく、笑みも零れた。大好きな人が夕食を振る舞ってくれるとなれば、断る理由はない。
ホームで電車を待っていると、なにか食べたいものはあるかと訊かれたが、なにも浮かばなかった。好きな食べ物や、嫌いな食べ物、それから、食物アレルギーの有無も訊かれたが、微苦笑して「ありません」首を振ることしかできなかった。
飯は美味い方がいいが、元々食にはあまり関心がないというか、淡白な方で、これといって好き嫌いもなければ、拘りもない。それに加えて、エンジニアが現場を離れることは滅多にないせいか、速く且つ効率よく栄養を摂れればいいと思ってしまう。それでも三食きちんと食べているし、必要な栄養はバランスよく摂っている。たまに自炊だってする。見栄えは悪いが。
「せっかくご馳走になるのに、すみません」
「謝ることはないよ。そうだなあ……肉じゃがと……旬だから秋刀魚を焼こう」
乃木さんは顔を綻ばせた。
電車を乗り継いで、或る駅で降りた。はじめて降りた駅だった。
駅前のスーパーマーケットに立ち寄り、食材を買った。支払いをしようとすると、「誘ったのは僕だから」と頑なに断られた。ならせめてと荷物を持った。野菜や魚の入ったレジ袋は思ったよりも軽かった。
乃木さんの家は、正直に言うと、田舎の祖父母の家を思い出させた。てっきりマンションに住んでいるものだと思ったから、昔ながらの塀に囲まれた小ぢんまりとした日本家屋の前で乃木さんが立ち止まった時は驚いた。暗くてよくは見えないが、庭は手入れがされているように思えた。
「お邪魔します」
玄関で脱いだ靴を揃え、燈の灯った狭い廊下を進む乃木さんのあとに続く。はじめて来たのに、どこか懐かしさを感じた。
「この間新米を買ったんだ。今年は秋田の新米にしたんだけど、すごく美味しくてね」
前を歩く乃木さんの表情はわからないが、きっと笑っているんだろうな、と思った。釣られて頬が緩んだ。
足元で板敷が軋んだ。廊下はひんやりとしている。
居間に通された。
寛いでほしいと言われたが、座布団に正座をした。
乃木さんの家にいるからなのか、乃木さんの手料理を食べられるからなのか、らしくないが、気持ちが落ち着かない。
台所に立つ乃木さんの背中を見詰め、たまらず「俺もなにか手伝います」立ち上がる。
振り返った乃木さんは「大丈夫。君はお客さんだから」と言って、すぐに火にかけた鍋の方を向いた。
料理はあまり得意ではないので、元の位置に腰を下ろした。
やがて、食欲をそそる匂いが漂ってきた。唾液が湧いて、自分が腹を空かせていたことに気付いた。
食卓には、炊き立ての新米に、湯気を立てるなめこの味噌汁、具沢山の肉じゃがと、大根おろしの添えられた秋刀魚の塩焼きが並んだ。皿は、どれも料理を引き立てる色をしている。どこでも買える安物ではないだろう。
「いただきます」
乃木さんと揃って手を合わせて、箸を取る。
うっすらと皮に焦げ目のついた秋刀魚の身を箸先でほぐして一口食べる。ちょうどいい塩気と凝縮された魚の旨みが広がった。咀嚼して、飲み込む前に白飯を頬張る。一粒一粒に粘り気がある新米は、噛み締める度に甘みが広がった。
「美味い……」
ぽつりと呟いて、肉じゃがに箸を伸ばす。じゃがいもはほくほくで、すっと箸が通った。人参とサヤエンドウの色味が鮮やかな肉じゃがは濃い目の味付けで、具材に味がしっかりと染みていた。肉も脂の旨味が感じられた。好みの味だった。
「美味いです。乃木さん、料理上手いんですね」
「口に合ったのならよかった。ご飯と味噌汁はおかわりもあるから、たくさん食べてほしい」
新米は今だけしか食べられないからと結んで、乃木さんは薬味の大根おろしに醤油をかけた。
お言葉に甘えて、白飯をおかわりした。旬のものや、新米の美味さを知った。
乃木さんは食後に緑茶を淹れてくれた。皿でいっぱいだった食卓も、急須と湯呑みがふたつだけとなると広く感じた。
温かい緑茶を啜り、庭から聞こえる虫の声に耳を傾けると、心が凪いだ。穏やかな、秋の夜だ。
「黒須」
不意に名前を呼ばれて、湯呑みに注いでいた視線を上げる。目が合った。
乃木さんは薄く唇を開いて「今夜君を誘った理由は他にもある」生き生きとした虫の合唱に掻き消されてしまいそうなほどの声量で言った。
任務の話だろうか。はたまた、もっと別の、たとえば、今の関係についての話だろうか——一刹那の間に色んな考えが浮かんだ。
向かいで正座をしていた乃木さんは、音を立てることなく、まるで這う蛇のように俺の傍へ移動した。身じろぎして、太腿に拳を載せて膝を突き合わせる。よほど重要な話なのだろうと悟り、乃木さんが紡ぐ言葉を一字一句聞き逃さまいと集中する。
「僕は、君に抱かれてもいいと思っている」
庭から聞こえていた虫の声が止んだ。
「だから、僕を抱いてくれていい」
乃木さんの伏せがちの睫毛が瞬いた。
「誰よりも僕のことを想ってくれる君を受け容れたい」
いつもの乃木さんだった。極めて平坦な言い方だったが、言葉の端々には、情熱がこもっていた。
「……乃木さん……」
ごくりと喉が鳴った。
「僕は君を大切に想っている」
胸に手を当てた乃木さんと距離を詰める。
そういえば、俺たちは、まだキスすらしたことなかったな。
「俺の……乃木さん」
黒須の整った顔が傾いて、近付いてきた。鼻先が触れそうになってようやく、キスをされると思った。
「…………っ」
咄嗟に唇を引き結んで固く目を瞑るものの——なにも起きなかった。
「乃木さん」
頬に手が触れる感覚に目を開けると、黒須は微笑んでいた。
「俺も乃木さんのことを大切に想っています」
黒々とした眸には、僕が映っていた。
「だから、今夜は、帰ります」
「……えっ」
「今のが乃木さんの本心だったとしても、下心があって家に来たわけじゃないんで。飯、すごく美味かったです。ご馳走様でした」
鷹揚と立ち上がる黒須を視線で追う。
「また、飯食いに来てもいいですか?」
「あ——ああ、もちろん」緊張が肩から落ちて座布団に転がった。「いつでもおいで」
鞄を提げた黒須を玄関まで送った。
「肉じゃが、今度も作ってください。俺好みの味でした」
前を歩く彼は、俯いていた。どんな表情をしているのかまではわからなかった。それでも、声音は柔らかなものだった。
「それじゃあ、おやすみなさい」
外に出て一揖すると、黒須は引き戸に手を掛けた。黒須のうしろでは、重たい夜の幕が降りている。
「おやすみ」
玄関のドアが閉まり、すりガラスの向こうのシルエットが遠ざかった。黒須が去ると、すっかり慣れた静寂が戻ってきた。
覚悟をしたつもりだったのに、やはり、いざその時を迎えると緊張して臆病になってしまう……
すりガラスを凝眸したまま、ふーっと息をつく。
「押し倒されなかったな」
うしろからFの声がした。
「うん。言っただろう、黒須はそんなことしないって」
本能で動く男ではないのは言うまでもないが、黒須が本当に自分を深く想ってくれていることがわかって、胸に温かな気持ちが込み上げた。
「でも、これでいいんだ。これからも、僕たちのペースでいい」
乃木さんが慣れないことをしているのはすぐにわかった。身を委ねようとしてくれたのは嬉しかったが、心の準備ができていないまま抱くのは、無理矢理迫るようで厭だった。
俺たちは互いを想い合っている。
傍にいるだけで満たされている。
抱き合うだけで生を実感できる。
繋がった心と同じように、いずれ肉体も交わることができたらいい。乃木さんのすべてがほしい。そして、身体の芯を蕩けさせる官能をふたりで味わいたい。
だが、それは今夜ではない。性急でなくていい。夜の帷が太陽の残光を呑み込み、昼の境界線を超えて世界を覆うように……ゆっくりでいいのだ。
――ああ、俺は手に負えないくらい、乃木さんのことが好きだな。
駅へ向かう道の途中で、別れたばかりだというのに、乃木さんに会いたくなって、たまらなく切なくなった。
街灯に蛾が群れているのを一瞥し、アスファルトを踏み締める。吹き抜けていった夜風は冬の気配がした。
歩調を緩めて天を仰ぐ。都会の月は小さいものだと思っていたが、黄金色の光を放つ月輪は、眩く、ひどく美しかった。