黒須×乃木

 

 郊外のシティホテルに偽名でチェックインをして、スーツケースを引きながらエレベーターに乗り込むと、如何にも、異国の地で旅行を楽しんでいるといった感じの若者たちが四人乗り込んできた。彼らは五階で降りるようだった。 
「あとで買い物に行こうよ」
「そうだね。お土産買わないと」
「ねえ、ビーチにも行きたい」
 若者たちの楽しげなやり取りを聞きながら、ビーチはオススメしないな、なんて胸中で零す。
 A国は最近雨季に入ったばかりだ。常に蒸し暑く、よく雨が降る。今日は晴れていて過ごしやすい陽気だが、いつ天気が崩れるかわからない。
 若者たちが降りていく。エレベーター内には安っぽい香水の残り香が充満していた。
 閉まったドア上のインジケーターを凝視して、上昇するエレベーターが止まるのを待った。
 八階に着いて、部屋に向かった。八〇五号室は突き当たりにあった。黒須とはこの部屋で合流する予定だが、彼は公道で起きた事故による渋滞で遅れている。
 部屋についてすぐに、静けさが張り詰めた室内に雨音が聞こえてきた。
 案の定、部屋に着いた黒須は濡れ鼠だった。
 彼は水が滴る濡れた髪をかき上げて、困ったように「雨に降られちゃいまして」と言った。ジャケットもシャツも黒いせいでわからないが、たっぷり水を吸っていることだろう。
「シャワーを浴びてくるといい」
 黒須はなにか言いたげだったが、着替えを抱えて素直にバスルームに向かった。彼が暖房器具の上に干した服を一瞥して、窓の外を見やる。雨の勢いが強いせいか、景色は白い。土砂降りだ。
 間もなくして、黒須が黒いシャツに黒いスラックス姿でバスルームから出てきた。
 

「雨の日は古傷が疼きますね」
 そうぽつりと呟いて、黒須は左肩の辺りを摩った。
「乃木さんは、そういう経験ありますか?」
「僕? 僕は」
 ないなあ、と言おうとして、背中にある傷を思い出して言葉を切る。幼い頃、バルカで人身売買組織の下っ端に抵抗した際に負った傷だ。先の割れた木の棒でぶたれ、木片が背中の肉を裂いた。あれは中々痛かったな……今はもう、なんともないけれど。
「子供の頃に負った傷が、痛む時があった」
「子供の時に大怪我を?」
 黒須は興味を持ったのか、首を傾げた。
「ああ。昔の話だよ」
「そうですか」どこか寂しそうに黒須は僕を見詰めた。「俺はまだまだ乃木さんのことを知らないな」
「僕だって、君の身体に古傷があることを知らなかったよ」
「俺の身体には、銃創と切り傷があります」
 大した傷ではないんですけど、と結んで、黒須はゆっくりと目を瞬かせた。
 一刹那、稲光が部屋を白く染め上げた。一呼吸のあと、遠くで雷が落ちた。轟音が心地いい静けさを打ちのめす。
「乃木さん」黒須がゆっくり距離を詰めてくる。
 腰に手が回り、距離が詰まる。途端に、甘ったるい重い空気が漂う。落雷の余韻が籠る耳に黒須の唇が寄った。
「傷跡を見せてくれませんか?」

 

 深い仲になっても、僕たちの間に肉体関係はない。
 上半身だけと言っても、互いに身体を剥き出しにするのははじめてだ。
 僕ひとりが脱ぐのもなんだか恥ずかしいので、揃って脱いで、すべてを曝け出すように、立ったまま向かい合った。
 黒須の鍛えられた身体は、色が白く、若々しく張りがあった。肩から腰にかけてのラインは均整が取れていて、無駄がない。筋の浮いた割れた腹は彫刻のようだ。左の脇腹には、肋骨に沿うようにして6センチほどの縫い傷があって、そこだけ色が淡い肉色になっていた。銃創は左の二の腕に残っていた。円形に歪にもじれた皮膚が、弾が貫通したことを物語っている。
 頭ひとつ分背が高い彼の身体に視線を留めて、二の腕の銃創を指差して「結構新しい傷だね」言うと、黒須は顔を顰めた。
「五年前のものです。銃撃戦で、流れ弾が」
「……急所を逸れていてよかった」
 手を伸ばして、銃創に触れる。彼の肌は温かい。僕たちは生きているのだと実感する。
「乃木さんの、傷は?」
「背中にある。古い傷だから、だいぶ薄れていると思う」鷹揚と黒須に背中を向ける。「どうかな?」
「ああ……これですか」
 黒須の掌の熱を肩甲骨の間に感じた。黒須は傷跡の輪郭を指先でゆっくりとなぞった。くすぐったさを感じて、ふっと笑う。
「誰かにこの傷を見せたことはないよ。君がはじめてだ」
 黒須の手がぴたりと止まった。彼が息を呑む気配を背中で感じる。
「乃木さん」
 肩口にしなやかな腕が回り、抱き寄せられた。肌と肌が密着して、熱い吐息を首元に感じた。体温が重なる。黒須の鼓動さえ聞こえてくるようだった。
「これから先も、この傷は俺だけが知っていたい……俺だけが知る乃木さんが見たい。俺に、ありのままのあなたを見せてください。全部、受け容れますから」
 強く抱かれた。渇望にも似た黒須の言葉は、眩く、鼓動を震わせる雷に似ていた。脳天を貫いた甘い痺れに、ほうっと肺に籠った体温が漏れる。
「あなたが好きです」
 消え入るような声と、縋るような抱擁に身を委ねて「僕も、君が好きだよ」胸の前で交わった黒須の手を握り、囁く。
 雨はまだ止みそうにない。
 もう少しだけ、こうしていたい。