襟尾×津詰

 

 なにかいいことでもあったのか、先程から、エリオは鼻歌混じりにペンを走らせて報告書を書き綴っている。朝からいつも以上に明朗快活とした機嫌がいたくいい部下を見下ろして、壁に寄り掛かったまま淹れたばかりのコーヒーを一口飲む。
「いいことでもあったのか?」
 何気なく問い掛けると、エリオは手を止めて顔を上げ、黒目がちの双眸をきらきらと輝かせて破顔した。
「実は、いい夢を見たんです。吉夢ってやつですね」
「へえ、どんな夢だ」
 好奇心が湧いた。エリオは「それはですね」ともったいぶったように言って鼻を鳴らし、言葉を継いだ。「オレの家でボスと食事をする夢です」
「…………」
 嗅ぎ慣れたコーヒーの香りを吸込んだところで思考が停止した。頭の中に浮かんだ疑問符を追い払ってなんとか言葉を組み立てる。
「……なんだって?」
「夢なのが残念ですが、ボスの手料理を食べられて幸せでした。正夢にならないか期待してるんです」
「ならねえよ。残念だったな」
 エリオはふっと吐息を零し、唇を突き出し、捨てられた犬コロのような顔をした。
 今の内容のどこが吉夢なのかわからない。眉間にシワを寄せてコーヒーを啜る。通い妻でもあるまいし、何故俺がエリオの家に行って料理を作るのか……。
 まったく不思議な夢を見るもんだと苦笑して、ふと、ここ最近エリオと飯を食いに行っていないことを思い出した。確か、一月ほど前に荒川区の居酒屋に行ったのが最後だ。
「エリオ」
「はい」
「正夢にはできねえが、飯は食いに行ってもいいぞ」
「……えっ、いいんですか?」
「ああ。最近行ってねえだろ? 気になってる店がある。付き合ってくれよ」
「はい、もちろんです」
 エリオは弾けんばかりの笑顔で頷いた。
 なかなか冷めないコーヒーをちびちび啜る。今日だけは、早く退勤できそうな気がした。

 

 歓楽街の外れの路地裏にぽつんとあった居酒屋は、こぢんまりとしていたが、週末の夜とだけあって店内は賑々しかった。割烹着姿の愛想のいい女将に通されたのは、一番奥の狭い座敷だった。
 年季の入った木製のテーブルの向こうで、ボスは上着を脱いで壁際にぶら下がっていたハンガーに掛けると、深い溜息と共にどっかりと座布団に腰を下ろし、胡座を掻いた。
「腹減ったなあ」
「何食べます?」テーブルの端に立て掛けられたメニュー表に手を伸ばす。「あ、枝豆ありますよ」
「そりゃ頼むしかねえな」
「オレ唐揚げ食べたいです」
「好きなもん頼め」
 ボスとシワと折れ目のできたくたびれた手書きのメニュー表を覗き込む。
 日本酒を二合と料理をいくつか選んだ。ボスとこうして食事に行くようになってから、オレは日本酒を飲むようになった。芳醇な甘さとキレのいい口当たりは、今では好きだ。
 日本酒と共に運ばれてきた枝豆と冷奴、それから通しの根野菜の煮物に舌鼓を打ちながら、今日の捜査について少し話をした。隣の席と距離が近いので、自然と声を潜める形になった。
 酒が入ってしばらくすると、ボスは「暑ぃな」顔を顰めて首元に手をやった。
 薄く開いた唇から熱っぽい吐息が漏れるのを見逃さなかった。伏せ目がちにネクタイを緩める姿につい視線を留めてしまう。哀愁混じりの壮年の色気に圧された。剥き出しになった無防備な喉元に喰らい付いてしまいたくなる……。そんな衝動に駆られ、思わず喉が鳴った。飼い慣らしたはずのボスへの尊敬以上の感情が胸の内側で鎌首を擡げる。
「……エリオ?」視線に気付いたのか、ボスは目を丸くさせてオレを見た。「どうした?」
「いえ、お疲れだなーと思いまして」
 つとめて平静に言う。遠くの席で笑いが起きた。
 ボスは眉間にシワを寄せて微苦笑した。
「さすがに今日は疲れたな。お前さんもお疲れさん」
 ボスは猪口を手繰り寄せてあおった。突出した喉仏が景気良く上下する。その喉元には朱が差している。
 酒が入って体温が上がると、ボスは喉から鎖骨の辺りまでほんのりと赤くなることをオレは知っている。このことを知っているのは、オレだけだ。オレだけでいい。オレは、ボスのことをひとつでも多く知りたい。ボス。オレのボス——。
 膝に置いた拳に力を込める。込み上げた渇望を腹の底に落とすように、猪口に残っていた酒を飲み干す。一気に喉が熱くなる。
「エリオ、お前さん中々いい飲みっぷりだな」
 白い歯を見せてボスが笑う。それにつられて笑みを返す。
 ああ、オレはどうしようもないくらい、この人のことが好きだ。