きれいは汚い、汚いはきれい。
さあ、飛んで行こう、霧のなか、汚れた空をかいくぐり。
——ウィリアム・シェイクスピア
タルボット・グライムズは、光の欠けた景色を見据え、樹液を舐める昆虫の口器のように変形した口から空気を吸った。
エンティティの箱庭のうちのひとつであるこの森は、雨と湿った土の匂いがした。人間の文明がまだ川のそばで繰り返し繁栄と衰退を繰り返していた頃にあった森の名前は知らないが、どこかに神殿があるらしい。
これは他の〝化け物〟――皮肉なことに自身も彼らと同じ邪神の配下となり、本物の化け物に成り果ててしまった――から聞いた話の中で一番興味深かった。最古の遺産を見てみたくて訪れてみたが、この箱庭は思ったよりも広い。
止まない雨で濡れるのも構わず、グライムズはぬかるんだ道をゆっくりと進んだ。立ち込める薄霧の向こうに巨大な石造りの建造物が見えた時、グライムズは思わずひしゃげた背中を伸ばして建物を見上げた。探していた神殿とは、このことだろう。
中へと続く階段を登りはじめた時、ぬるい風がか細い女の声を運んできた。独り言にしては長すぎるが、中に誰かいるのは間違いない。
今日の儀式は、背の高い痩せぎすのアイルランド人の男が終わらせたはずだから、エンティティに捧げる生贄ではないだろう。
グライムズが最後の石段を踏み締めると靴音が反響して、女の声が途切れた。
「誰だ?」
グライムズは警戒を含んだ誰何に足を止めた。
神殿の真ん中に立っていたのは、ヴェールのついた荘厳な頭飾りと白いローブを纏った華奢な女だった。よく見ると、なにか病を患っているのか、全身の皮膚が熟れた果実のように崩れて、黒ずみ、膿んでいた。それでもこの女が美しいと思えるのは、ヴェールの下の顔の半分が端整で、色が白いからだろう。
「司祭、か?」
グライムズは蜜を垂れ流す口を開閉させて、喉の奥から声を絞り出した。女の手からぶら下がった吊り香炉から、馥郁とした甘い香りが漂ってきた。
「そうだ。あなたは……?」
「タルボット・グライムズ。スコットランドの出の、化学者だ」
出身や生きた時代も違うのに意思の疎通がとれるのは、エンティティの力のおかげだった。エンティティのことは恐ろしいと思うが、グライムズはこの力はありがたく思っていた。
「聞いたことのない名だが、生贄ではなさそうだ。私と変わらぬ立場の者ならば、眷属も同じ。私のことはアディリスと呼んでほしい。私はあなたや他の者と違ってそれ以外の名は持たない」
頷きながら、グライムズはアディリスに近付いた。彼女は背が高いから、見上げなければいけないが、背骨の丸まったグライムズは、彼女の頭頂まで見上げることができなかった。
「この神殿に興味がある」
「そうか。好きに見て回るといい」アディリスはそれだけ言って微かに口の端を持ち上げた。「祈りの途中だ。失礼する」それから背中を向けた。
遠慮なく、グライムズは神殿の中をくまなく探索した。石造りの神殿は、古代建築物の技術の高さが窺え、実に興味深いものだった。
神殿の地下を見たあと、グライムズは杖を突いてゆっくりと階段を登り、アディリスの元に戻った。
神殿の真ん中で、アディリスが苦しげに咳き込んでいた。そして彼女の足元には緑色の――吐瀉物の色ではない。おそらく胆汁だろう――体液が滴り落ちていた。
吐瀉で生贄たちを病に感染させる女がいると聞いたのを、グライムズはふと思い出した。
――バビロニアの敬虔な女司祭がいます。病に罹っていますが、美しい人でしてね。
レリー記念研究所の執務室でハーマン・カーターがうっとりと話してくれた時、グライムズは書物に夢中で上の空だった。
――博士はきっと彼女に興味を持たれると思いますよ。
カーターはそうも言っていた。彼の言う通り、グライムズの中で好奇心が鎌首をもたげた。古代の疫病、感染力の高い胆汁、病に侵されてもなお動く不死の肉体……
「その胆汁を、私にくれないか?」
「……なに?」
アディリスは口元を手の甲で拭い、目を丸くさせた。
初対面の男にこんなことを言われて頷く女はいないだろう。化け物同士であれ、礼節は大切だ。元はただの人間なのだから。
「研究がしたい……たのむ」
紳士ぶるのはこれ以上無理だった。グライムズは、込み上げた好奇心を抑え込むことができなかった。
アディリスは咳払いをしたあと「こんなものをか? あなたは変わっているな」と言って溜息をついた。
外では雨が降り続いている。
彼女の胆汁をもらうまで、グライムズはここを去るつもりはなかった。