その日、レリー記念研究所の書斎に彼の姿はなかった。
「カーター? いないのか?」
彼がいつも座っている椅子の背凭れを見詰めて投げかけた声は、静まり返った書斎の冷えた空気にとけた。
整理整頓されたデスクの端には年季の入った分厚いファイルが積み重なっていて、中央には細かな文字が綴られた用紙と万年筆があった。用紙はまだ半分も埋まっていない。まるでついさっきまで彼がここにいたかのようだ。
それともうひとつ、デスクにはメモが置いてあった。デスクの前に立つと必ず目に入るように意図的に手前に置かれたであろうメモを取る。彼の端正な字で書かれているのは、ほんの数文字の大文字のアルファベットだ。
時代や使用する言語が違えども、仲間と問題なく会話ができて意思の疎通が取れるのは箱庭の主のおかげだが、識字は別だ。
幸い英語はサリーやカーターがねんごろに教えてくれたおかげで多少読み書きができるようになったので、これも読める。
「……仮眠中、か。なるほど」
声に出して、メモを置く。口の端が緩んだ。
瞼が重くて集中できないのであれば、眠気に抗わずに寝る。効率と合理性を追求する彼らしい選択だ。
本棚を埋める書物を勝手に読むのは気が引けるので、書斎を出て、気まぐれに研究所内を歩くことにした。彼と並んでここを歩くのが好きだ。人体の魅力や未知なる領域である脳の可能性についてを情熱的に話してくれる彼が好きだ。
吹き入る風にあおられて病人の咳のような音を立てて鳴る窓の前を通り過ぎ、永劫被験者を乗せることのないストレッチャーで羽を休める数羽のカラスの視線を感じながら突きあたりを曲がり、宛もなく彷徨った。
月明りの差す廊下を外れて、燈の欠けた部屋を通り抜けようとドアのない入口をくぐってすぐに、部屋の隅に置かれたベッドに大柄な影が横たわっているのが見えて、驚いて足が止まった。
そこにいたのは、この研究所をこよなく愛する彼だった。
キルトを腹まで被せて、胸の上で腕を組んで寝息を立てている。いつも固定されている瞼と唇は今だけは閉じられて、存在感を示す白衣はヘッドボードの端に無造作に引っ掛かっている。
はじめて見た眠る彼をもう少し見ていたくて、慎重にそばに寄り、無防備な姿を見詰めたまま、ベッドの近くに置かれた椅子にゆっくりと腰を下ろす。手に下げた香炉の鎖が揺れて、椅子の足に香炉の縁があたり、かつりと無機な音が跳ねた。
彼の寝息が途切れて、閉じていた瞼が開いた。
「――あ」
しまった。
息を飲んだ一刹那、頭を傾けた彼と目が合った。寝起きの眠たげな眼が何度か瞬いて、やがて目尻が細まった。
「……アディリス」
「すまない、起こすつもりはなかった」
できる限り声量を抑えて咄嗟に言った。
彼は鼻息を吐くと、腕を解いて身じろぎをして寝返りを打ち、シーツの端に寄り、キルトを前腕で持ち上げた。
「おいで」
はじめて耳にする、気だるげさを含んだ穏やかな声だった。顔が瞬く間に火照った。
彼のぬくもりが残っている開いた空間を凝視して、頭の中で理性を総動員させて逡巡する。
――これは、同衾ではないか。
己の身は神に捧げたものなのだから純潔を守るのは当然である。いくら彼を心の底から敬愛しているといえども、夫婦ではない。同じ寝具で身を寄せ合って眠るなど靦然たる行為だ。
しかし――頭ではわかっていても、心の中でふつふつと沸いた彼に対する熱情は抑えきれそうにない。胸の奥で鼓動が速くなる。顔が熱い。ほんとうは今すぐにでも飛び込みたい。
「アディリス?」
親しみのこもった声音で名前を呼ばれて、理性の重石が落ちて、天秤が音を立てて大きく傾いた。
意を決して立ち上がる。香炉を椅子に置いた。脱いだ冠をサイドテーブルに載せ、そろりそろりと歩み寄り、おそるおそるシーツに手を突いてベッドに上がった。羞恥心にだけは勝てなくて、彼に背中を預ける形で横になると、すぐにキルトが被さった。あたたかい。
「カーター、どうか私のことを疚しい女だとは――」
「おやすみ」
「…………ッ!?」
彼の太い腕がキルトの上から腹に回って、言葉は喉の奥に引っ込んだ。薄いキルトの下で隙間なく身体が密着して、剥き出しの爪先に彼の足の甲があたった。寝息がすぐうしろでする。
心地好い温度に抱かれて眠ろうと目を閉じてみるが、鼓動はまだ落ち着いてくれそうになかった。