まどろみに似た静寂は、遠くから聞こえた数羽のカラスの鳴き声で途絶えた。
しばらくして、今度は近くでカラスが鳴いた。読んでいた医学書から顔を上げて耳を澄ますと、小さな話し声と人の気配が近付いてきた。書斎の入口を見据えていると、
「カーター先生いるかな?」
聞き慣れた声と足音がした。やってきたのはスージーとジュリーだった。
そのうしろにははじめて見る背の高い女がいた。荘厳な頭飾りと白いローブを身に纏った、気品漂う女が。
「先生最近儀式続きだったから、まだ会ってないでしょ。新入りのアディリスだよ。あたしたちの後輩なの!」
普段内気で大人しいスージーが得意げに言った。後輩というものができて嬉しいようだ。
黄ばんだページを閉じて立ち上がり、頬に触れる。開口器で吊り上がった唇と噛み締めた歯の隙間からは感嘆の溜息以外は阻まれてしまうので、開口器を外すことにしたのだ。最近は短い時間であれば、開瞼器と揃って外しても邪神からの仕打ちは受けないので、こうして誰かと話す時は束の間の自由を得る。
「バビロニアの女司祭が加わったとエヴァンから聞いていましたが、そうか、君が……ああ、挨拶が遅れて申し訳ない、ハーマン・カーターだ。よろしく」
彼女は片手に変わった形の香炉を吊り下げていたので、空いている手で握手ができるように反対側の手を差し出した。
アディリスは不思議そうに差し出された手を見下ろして、目を瞬せた。
「アディリス、握手だよ。相手の手を握るの」
スージーが囁くように言うと、アディリスは納得したように何度か頷き、恐る恐るといったように手を出した。彼女は爪が長かった。肉厚な掌と、ひとまわり小振りな薄い掌が重なる。たおやかな指を包むように、親愛を込めて握る。こんな風にぎこちない握手ははじめてだ。
「どうかアディリスと呼んでほしい。私はそれ以外の名は持たない」
耳朶に届いた彼女の声はシルクのようになめらかだった。
「この子たちからあなたは医師だと聞いている。とても興味深い。もしよければ、あなたが生きた時代の医術について教えてほしい」
「私の専門は少し違うが、興味があるのならいつでもここにくるといい。歓迎しますよ」
「なんか先生たちいい感じじゃん。よかったねアディリス」
スージーの陽気な声に、アディリスは控えめに微笑んだ。
その日以来、彼女は時折この場所へ私を訪ねにやってきた。
紀元前の疫病に罹患したアディリスの身体は皮膚が黒ずみ、腫瘍に覆われただれてはいたが、エンティティによれば、接触しても感染はしないという。
だから、握手をした時は嬉しかったと、のちに彼女は語った。
それに、アディリスを悩ませる皮膚から漂う悪臭というのも大して気にならない。蜜のように甘い、馥郁とした香りを放っている香炉の煙と同じく、すっかり慣れてしまった。
王冠のような頭飾りのヴェールの間から見える横顔は常に憂いを帯びていたが、色が白く、端正で、儚げで、いつまでも見詰めていたかった。そばにいたかった。
「なにも心配することはない。アディリス、君は……君は美しい」
ふとした時に長く目が合って、喉に詰まっていた言葉を紡ぐと、アディリスは切れ長の目を瞬かせ、俯きがちに「こんな姿でも、そう思ってくれるのか」と小さな声で紡いだ。
不安そうにデスクの端に置かれていた手を握ると、視線が重なった。互いにそれ以上言葉は必要なかった。吊り香炉から漂う魅惑的な甘い香りが、ふたりの間で心地よい安閑に混ざる。怯える小動物のように肩を震わせる彼女の頬に触れ、頭を傾けて、ほめく吐息を溢す唇を塞ごうとした時に、アディリスが邪神に儀式の時間だと呼び出されなければ、そのまま滾る思いをぶつけあっていただろう。
彼女に対する感情は、研究への好奇心や情熱とはまた違った、理性を持ってしても抑え難く、言葉にできない繊細なものになっていた。
儀式から戻って間もない彼女の横顔はひどく物憂げに見えた。
他の仲間が丸太に座り焚火を囲って食事の支度をしている中、彼女だけは顔を上げなかった。
「アディリス? どうかしましたか?」
気に掛かって隣に腰掛ける。彼女はハッとしたように意識をこちらに向けた。
「カーター……。なんでもない。少しぼんやりしていただけだ」
彼女は平然としているようで、拭いきれない悲しみがヴェールの向こうに見えた。
出身や時代、使用する言語も違うのに、他の皆と同じく言葉が通じるのはこの箱庭を統べる邪神の不思議な力のおかげだが、声音や表情の機微は、その力に頼らなくともわかる。
「儀式でなにかあったようですね」
途端彼女は柳眉を垂らし、戸惑ったように、視線を泳がせたあと、一拍置いて顎を引いた。
「鏡を見たのだ。不浄で穢らわしい顔が映っていた。私は……私はあなたに美しいと言われて、少し浮かれていたようだ。私は醜い」
「アディリス」
彼女の言葉を遮るように名前を呼び、無気力に垂れ下がった手を取り、しっかりと握った。
「君は醜くなどない。人々を救いたいと願う君の心は清らかだ。眸には慈悲の灯火がある。祝詞を紡ぐ声は淀みなく澄み、手には信仰が染みついている。君はその足で迷いなく信じる道を往く。アディリス、君は誰よりも気高く美しい人だ。私は君を愛している」
周りの目を気にする余裕はなかった。肉を切ろうとしていたエヴァンが肉包丁を握ったまま硬直し、サリーが息を飲んで口元を抑え、フランクとその友人たちが顔を見合わせていても構わなかった。
「……私もだ。私もあなたに焦がれている」
アディリスの眸が潤んでいるように見えるのは、火の加減のせいだろうか。
「礼を言おう。こんな気持ちははじめてだ」
彼女の形の良い唇は緩やかな弧を描いた。
火にくべた薪がぱちりと弾けて、止まっていた時間が流れ出す。
「ちょ、せんせー達いつの間にそーゆー仲になってたワケ!?」
「マジかよ……」
「みんなの前で告白なんて、先生って大胆ね」
「アディリスやったね! 彼氏できたじゃん!」
四人の若者が興奮気味に騒ぎ出す。エヴァンはぜんまい式の錆びた玩具のような動きで肉を切りはじめ、サリーは朗らかにくすくす笑っている。
穏やかな夜の色と深い親愛が、火に照らされた。