うしろから腰を抱かれたかと思うと、タルホーシュの兜の面頬が首元に埋まった。面頬はそのまま耳に軽く擦り付けられた——彼は最近こんな調子でスキンシップを図ってくる。二メートルを超える大男の繊細とも取れる仕草は、ヴェクナにとって悪いものではなかった。
タルホーシュはヴェクナに忠誠を誓った。褒美として真の名を呼ぶことを赦しているし、触れることも許している……故にこれらのちょっとした行為も忠誠心の現れなのだろうとヴェクナは思っている。
——それでこそ私の騎士だ。
ヴェクナは、宙に浮かせた書物の黄ばんだページから視線を外すことなく満足気に喉の奥で笑って、背後に立つ彼の鈍い銀色の兜の側面へ手を回し、目庇の辺りを指先でくすぐるように撫でてやった。
兜越しの呼気は、静かなものだった。タルホーシュは、ヴェクナを腕に収めたまま動こうとしない。ヴェクナもまた、ほんの少しだけ浮いたままタルホーシュに身を預け、片手で彼の左腕に絡みつく鎖を無意識に手弄りながら書物を読み続けた。会話をすることもなく、密着して、ただ互いに触れ合っていた。
どれくらい経ったか、ヴェクナは反対側の本棚へ移動しようと、読んでいた書物を閉じ、棚に戻して、下腹部にあったタルホーシュの手をほどいて、するりと抱擁から抜け出してローブの裾を翻した。読みたい本は、ちょうどタルホーシュの真後ろの棚にある。
「ヴェクナ」
騎士の手甲と大きな手がぬっと左右から伸びてきて、両頬を挟み込まれた。
「は——」
稀代の魔術師は不意打ちッタを喰らった。濃い影が被さってきて、唇に面頬が押し当てられた。ちょうどそこは、タルホーシュの唇がある位置だ。冷たい金属の感触と血液にも似た鉄の臭気に呆気に取られ、ヴェクナは瞬きをすることすら忘れた。
今のがぎこちない口付けであることに気付いて、ヴェクナは目庇の隙間から見えるタルホーシュの昏い双眸を見据えたまま「お前……」なんとか言葉を紡いだ。「まさか、今までのも口付けだったのか?」
今度はタルホーシュが呆気に取られる番だった。「そのつもりだったんだが」
「愛情表現か? どこで覚えてきた」
愛情表現という言葉——温かみに溢れた、血の通った言葉だ!——を口にしたのははじめてだった。
「いや……ただ……ヴェクナは俺のものだという証を残したくなった」
無慈悲で残虐な男……独占欲の強い男……なんだかひどく滑稽に思えて、ヴェクナは笑った。
「鋼鉄の口付けとは、お前らしい」
「兜を外してした方がよかったか?」
タルホーシュの眸がゆっくりと瞬いた。
「好きにしろ」
存在しない肺腑からふっと息を吐き出して、ヴェクナはタルホーシュの兜の側面に両手を添えた。
「ほだされすぎだな、私も、お前も」
「……そうかもしれないな」
タルホーシュが背中を丸めた。兜と額が重なって、野心を秘めた眸と、奈落にも似た眸が惹き合う。
ふたりの間には、たしかに、人と人が交わす熱い血潮にも似た情があった。それをなんと呼ぶのかふたりとも知らなかったが——そんなことは、どうでもよかった。夜と霧の箱庭で、互いがいればそれでよかった。