フィリップ・オジョモが『トンプソン・ハウス』の二階にあるタンスを開けた時、巨大なネズミが一匹飛び出してきた。ネズミは不服そうにキイキイと甲高い鳴き声をあげてフィリップの横を素早く走り抜け、どこかに消えてしまった。
タンスの扉の取手を掴んだまま、フィリップはカビ臭いタンスの中をまじまじと覗き込んだ。ハンガーにかけられた薄汚れた男物のジャケットが一着ぶら下がっている。ジャケットから視線を落とすと、棚板になにか置いてあった。
フィリップはそれを手に取った。それはえんじ色のカバーの一冊の本だった。埃をはらう。タイトルは掠れてしまって読めない。黄ばんだページを捲って奥付けを確認してみると、一九〇〇年代半ばに出版された小説だった。
「レイス? どうしたの?」
背後からした声に答えようと、フィリップは微笑みを浮かべて振り返った。部屋の入口に、トンプソン・ハウスの現在の家主、ヒルビリーが首を傾げて立っていた。
「本を見付けた」
フィリップは手にした本を持ち上げてヒルビリーに見せた。
「なんの本?」
「古い小説みたいだ。ジャンルは多分……ハードボイルドかな」
ヒルビリーは「ハードボイルド?」と復唱して「あ、かっこいい刑事が出てくるやつ? オレ、テレビで観たことあるよ」本を見詰めた。
フィリップは目を丸くさせた。彼がテレビでハードボイルドなドラマや映画を観たことがあるのが意外だった。テレビは、彼に色々な世界を見せてくれていたらしい。
「ハードボイルドって、実はよくわからないけど、多分そういう「男臭い」ものじゃないかな」
「ねえレイス、それ、読んで」
フィリップは浅く開いた唇を舐めた。フィリップは今まで何度かヒルビリーに読み聞かせをしてきた。だがそれは、霧の森に存在する、彼らとは由来のない領域で出会った本だ。この本はおそらく、ヒルビリーを虐げてきた彼の両親が残したものだろう。それを読んでもいいのだろうか……。
「オレ、レイスが本読んでくれるの好き」
ヒルビリーは無邪気に言って、好奇心に満ちた小さな目をフィリップに向けてきた。
「いいよ。じゃあ、ソファで読もう」
ふっと笑って、フィリップは本を提げて、彼と共にオンボロソファに向かった。
フィリップとヒルビリーは、スプリングが飛び出したソファに並んで座った。
革がズタズタに裂けた背もたれに身体を預け、フィリップは本のページを捲り、ゆっくりと朗読をはじめた。数十ページ読み上げたところで、隣で黙って耳を傾けていたヒルビリーが「眠くなってきちゃった」指の背で目を擦った。
「少し寝なよ」
開いていた本を閉じて、フィリップはシートに座り直して、自分の太腿を軽く叩いた。ヒルビリーは小さなあくびをすると、彼の膝に導かれるようにして頭を置いた。上と下で目が合った。ゆっくりと眠りの幕が降りてきて、読書の時間は終わりになった。
「レイス、おやすみ」
「うん、おやすみ」
フィリップは、昔故郷で母が幼い自分にしてくれたように、ヒルビリーの胸を優しくリズミカルに叩いた。
トンプソン・ハウスに立ち込める生臭い静寂に、ヒルビリーの寝息が被さる。
フィリップはふーっと吐息を漏らして、背もたれに寄り掛かり、何気なく視線を左から右に動かした。塗装のはげた壁や虫食いだらけの柱はもう見慣れたものだ。正面の窓からは西陽が差しているが、ここはいつだって夕暮れ時で、これ以上西陽がふたりの座るソファへ這い寄ることは永遠にない。
それでも、フィリップは西陽の眩しさに顔を顰める。それから眠気に身を任せて瞼を下ろした。外でとうもろこし畑が風にざわめく音がしたが、多分気のせいだろう。