見渡す限り草地が続く、幽寂とした丘陵の頂上に、一輪の美しい白百合が咲いていたとする。
二度と種子が芽吹くことがない尊い一輪の百合の運命を自分が握っているとしたら、一体どうするだろう?
「ーー前にも誰かがそんな質問をしたな。確かその時お前は答えなかっただろう、呪腕の。それで? どうするのだ、そこに百合が咲いていたら。その手で手折るのか?」
百貌のハサンが興味深そうに首を傾げると、後頭部で括った髪が動きに合わせて揺れた。異形を取って付けた右手に対する皮肉と、答えを期待する好奇の眼差しを受け、呪腕のハサンはクックと喉を鳴らした。
「以前そう問い掛けられた時はうまく思い浮かべることができなかったが、今はできる。手折るなど言語道断。咲き誇る気高い花は愛でるに限る」
髑髏の面の下で微かに笑んでからーーと言っても爛れた口元の皮膚が引き攣っただけだが――うっとりと語を継いだ。「一輪しかないのなら護らねば」
呪腕のハサンが瞼の裏で思い描いたのは、丘に咲く白百合ではなく丘に立つ或る少女だったが、彼女は美しく、凛々しく、純真で、見知らぬ丘に咲く一輪の白百合よりもずっとずっと護るに相応しかった。
「愛でるだと?」百貌のハサンは細い眉を片方釣り上げた。「お前にそんな思惑があるとはな」
「意外か?」
「ああ。そんなことをするのは静謐のくらいかと思っていた」
二人分の視線を受けたのは、最年少の暗殺者、静謐のハサンだった。彼女はまだ幼さが残る顔を綻ばせて小さく頷いた。
「花は好きですから。いけないとわかっていても、そんなに綺麗な白百合なら摘み取ってしまいたい……」
控えめな声量だったが、そこには熱い切望と、虚しい渇望が入り混じっていた。叶うことない希望を紡ぎ終えた時、彼女の胸に埋まる拳が力むのを、呪腕のハサンは見た。
「しかしどうして今になってそんな話をする? 確かそれは、本当は心理を探る質問だったろう? 大切な人に自分が取る行動とかなんとか……さては慕う輩ができたか?」
「否、深い理由はない。先日魔術師殿の部屋に生けられた花を見てふと思い出したのだ」
花弁の小さな白い花が花瓶に一輪挿してあるのを見て、唐突に、生前焚火を囲って夜通し聞いた話を思い出したのも、無垢な白百合と魔術師を重ねたのも本当だったが、百貌も静謐も、それ以上訊いてこなかった。
「あれ、皆集まってどうしたの?」
噂をすればなんとやら。
ハサン達は各々、開いたドアの方へ顔を向け、主として仰ぐ少女と、その後ろに控えるサーヴァント――初代山の翁――を見て、揃って恭しく頭を下げた。
その慇懃な態度は正確には少女に向けてではない。それは少女も山の翁も承知だった。
「喩え話をしておりました」
「喩え話?」
「はい」呪腕のハサンは徐に顔を上げた。「生い茂る草以外何もない丘に、一輪白百合が咲いていたらどうするか、という話です」
「へえ、皆はなんて答えたの?」
「私は、摘み取る、と。この手で触れたら、枯れてしまうでしょうけれど……」
静謐のハサンは俯きがちに答えた。
「私は踏み付けると答えた」
淡々と答えるのは百貌のハサンだ。
「呪腕さんは?」
少女が首を傾けた。
「私は……愛でる、と」
その百合を貴女に置き換えて考えていたとは言えず、呪腕のハサンは誤魔化すようにからからと笑って続けた。
「無垢な白百合でありますからなぁ。魔術師殿なら、どうしますかな?」
「うーん、わたしなら……そうだなあ、毎日お水をあげに行って、色々話しかけちゃうかも……キングハサン、あなたならどうしますか?」
彼女は首を巡らせて、背後に佇む山の翁を見上げた。白く細い喉が無防備だった。
「花か」
地の底から響くような低い声の後、山の翁の髑髏の面が僅かに下がった。俯いたのだ。仮面の窪んだ眼窩の奥で、無感情に眸が明滅する。
「毒となれば切る。山背に吹く風に揺れるだけならば何もせぬ」
「毒? あれ、でも百合の毒って根っこにあるんじゃ……」
「魔術師殿」呪腕のハサンは少女の言葉を遮った。「良いのです。これは他愛のない空想の話でありますから。初代様がお答えくださるだけでも恐悦至極」
この喩え話の核心を長が知っているかはわからないが、あの答えは実に初代、山の翁らしいものだった。
〝山の翁〟の祖である彼が、生前、信仰の為に妻子をも犠牲にし、過ちを犯した実子を厳として処断したことも知っている。
だから、それ以上聞くのは――正直恐ろしいのだ。
呪腕のハサンの目の前には、思い描いた愛でるべき〝白百合〟が咲いているのだから。
「そっか、でもそれ、なんかロマンチックな喩え話ですね。あとでマシュにも訊いてみようかな」
少女の無邪気な微笑みに、呪腕のハサンも釣られて頬を崩した。
「キングハサン、さっきの百合の話ですが」
少女は俯いたまま廊下の途中で足を止めた。それから鷹揚と歩を踏み出してから隣で立ち止まった山の翁を見上げる。上と下で視線が重なった。
「どうして綺麗な百合には触れないで、見ているだけなんですか?」
山の翁の目には、本当に、丘に咲き誇る白百合が見えたのだろうか。そんなそこはかとない考えは胸の中で疼き、込み上げて、喉を焦がすようで、吐き出して楽になってしまいたかった。
「我は骸。我は生を断つ者なり。故に、瑞々しい穢れを知らぬ花に触れようとは思わぬ。……生者にもな」
山の翁は少女から視線を逸らさずに言った。
「……そういえば、キングハサンはわたしにも触れてくれたことはない……ですよね」
「我が生者に触れる理由はない」
「わたしは、キングハサンに触れたい」
「温みを求めるならば他の者に求めれば良い」山の翁は浅く溜息を吐いて語を継いだ。「我に触れても冷たいだけだ」
「…………」
山の翁を見上げたまま、少女は薄桃色の唇を引き結んだ。静思しているのか、長い睫毛に囲われた眸に山の翁を映し、何度も瞬きをして。
そして、不意に少女は山の翁にぶつかるように抱き着いた。
手はしっかりと腰に回り、小さな衝撃を受けて揺れる外套を握り締めた。
「こうしてればあったかくなります」
甲冑が擦れ、無機な金属音が少女の声に被さる。
生き生きとした抱擁を腹に受けながら、山の翁は無言で彼女を仮面の奥から見下ろした。
透き通った頬。華奢な首。袖から覗く白い手……少女の幼くも強引な意思表示は、不思議と心地良く感じた。
柔い肌から伝わる体温は甲冑越しではわからないが、それでも、確かに彼女と触れ合っている。
山の翁は何も言わなかった。代わりに、少女の肩に空いていた片手を乗せた。世界の命運がのし掛かっている割には、肉の薄い肩に。
「キングハサン……」
少女が弾かれたように顔を上げた。初めて触れられて驚いているようだった。
戯れに白い頬を包みこんでやれば、彼女は破顔し、うっとりと目を細め、掌に頬を押し付けてきた。籠手は、冷たいだろうに。
「汝は、散らすには惜しい白百合だ」
一拍置いて、少女の白い頬がみるみるうちに赤くなっていった。眸が潤んでいるように見えるのは、天井の明かりの加減だろうか。
暫くの間、互いに何も言わなかったが、穏やかな春の日差しのような暖かさがふたりの間にあった。
「これからもずっと、わたしのそばにいてください」
「案ずるな、契約者よ。我が剣、我が身は汝の為にある」少女の頬に触れたまま、山の翁は「永遠にな」と結んだ。
目には見えない甘美なそれを、人は〝愛情〟と呼ぶだろう。
生前――たとえ刹那的でも、犠牲的なものであっても――確かに抱いたことのあるその感情は、山の翁にとって、微睡のように心地よかった。