「あの、アドリアナさんというのは、あなたですか?」
基地にやってきた小柄な青年の問い掛けに、アドリアナはすぐに答えることができなかった。それどころか、一刹那困惑した。儀式以外で生存者に遭遇することはないが、エンティティが気まぐれで悪趣味なことをはじめたのかと思った。しかし、彼の左目の強膜が黒く、眸が血のように赤いのを見て、すぐに仲間だと分かった。
「そうよ。ようこそ。私の基地に」
青年は憔悴しきった顔をしていたが、アドリアナが頷くと、少し安堵したように表情を和らげた。彼の髪は老人のように真っ白だ。どうしたらこうなるのかアドリアナは考えたが、答えは浮かばなかった。
「コーヒーがもらえると、サリーさんから聞いたんです」
「インスタントだけどね。いらっしゃい。ちょうど退屈していたの。話し相手になってちょうだい」
「ありがとうございます」
青年は律儀にお辞儀して、階段を登るアドリアナに続いた。基地の二階は、住居スペースになっている。
「座って。今コーヒーを淹れるから」アドリアナは電気ケトルのスイッチを押した。「あなた、名前は?」
「……金木……金木研です」
「日本人か。私の父も日本人なの。みんな私のことをファーストネームで呼ぶけど、私のファミリーネームは今井っていうのよ」
マグカップにスプーン二杯分のコーヒー粉末を入れて、沸いた湯を注ぐ。「砂糖とミルクは?」
「いりません」
色違いのマグカップを手に、アドリアナは金木の待つテーブルに向かった。彼はまた、か細い声でありがとうございますと言って、マグカップに視線を落とした。「いただきます」
湯気の立つ熱いコーヒーに息を吹きかけて、彼は目を細め、慎重に一口飲んだ。「美味しい……」
「好きなの? コーヒー」
足を組みながらアドリアナは微かに笑んだ。金木の眸が揺れた。大した質問でもないだろうに、彼は言葉を選んでいるようだった。
「コーヒーは……唯一、飲めるんです」
答えは、曖昧なものだった。金木は疲れ切ったように目を閉じると項垂れた。マグカップを包み込む手が震えている。アドリアナは、彼が最近霧の森にやってきた「喰種」であることに気付き、マグカップを口元に運ぶ手を一瞬止めた。彼は、人肉を喰らうことでしか生きられない……。
「インスタントコーヒーも悪くないでしょ」
彼が人肉を口にすることに対してひどく苦しんでいることを、サリー――彼女は相手が誰であれ、実に面倒見がいい――から聞いている。だから、話を逸らすことにした。
「本当は挽いた豆があればいいんだけどね。いっそのこと、今度コーヒーメーカーごとエンティティにご褒美で貰おうかしら。それで、時間をかけて丁寧に淹れるの」
「コーヒーは淹れ方で味が変わりますからね」
「あなた、もしかしてコーヒーにこだわりがある?」
「こだわり、というか……実は、喫茶店でアルバイトをしていたんです。店長に淹れ方を教わって、いつも練習していました」
「なら、あなたに淹れてもらった方がよさそうね」
アドリアナが笑うと、金木もつられたのか、ふっと笑った。
「そういえば、あなたで日本人は四人目になるわ」
「僕以外にも日本人がいるんですか?」
「いるわよ。でも、ひとりは古い時代の侍で、残りは亡霊だから、こうやってコーヒーを飲みながらおしゃべりなんてできない。だから、コーヒーが飲みたくなったらいつでもいらっしゃい。今度は、いい豆を用意しておく」
金木は呆気に取られているようだった。彼は泣くのを堪える子供のような顔をして「そうします」言った。
この霧の森から出られないのと同じく、彼は永劫苦しみ続けるのだろう。それでも、たった一杯のコーヒーで安息を感じられるのなら——それでいい。いつもより苦いコーヒーを啜りながら、アドリアナは目を伏せた。