――いつも詰めが甘いのだ……お前は。
鋭い痛みが腹を貫き、口腔に血の味が広がって、衝撃ですべての記憶が戻った。目の前にいたのはたしかに主だった。血溜まりの中に倒れ込み、彼女に逃げるよう叫んで……それから……?
名前を呼ばれた気がして、眠りの底にあった意識がふわりと浮上した。
目を開けると、白い天井がぼやけた視界に飛び込んできた。薄く開いた唇から深く息を吸うと、鈍く腹が痛んだ。丈夫が取り柄といえども、今回は堪えた。
掌に熱を感じてふと頭を傾けると、見慣れた姿があった。彼女に、片手を握られていた。
名前を呼ぼうとしたが、やめた。彼女はベッドに寄り掛かったまま、顔を伏せて眠っているようだった。いつからここにいたのか、どれくらいこうしていたのかわからない。手を握り返すと、肉の薄い肩がぴくりと跳ねた。
「あ……」顔を上げた彼女と目が合った。「ファラスさん」
「そなた……ずっとここに……?」
彼女は曖昧に微笑んだ。
「よかった。傷はまだ完全に癒えてないそうですから、まだ安静にしていてくださいね。なにか欲しいものはありますか?」
掌の上にあった手がそっと離れて、彼女が立ち上がった。それに倣ってシーツに手を突いて上半身を起こす。
「大丈夫だ。すまない」
口の端を緩めると彼女も微笑んだ。記憶が戻った旨を伝えると、彼女は垂れがちの目をゆっくりと瞬かせた。
「なにがあったか、覚えて……いるんですね」
今度は俺が曖昧に頷く番だった。
「少し、外の空気を吸ってこようと思う」
「歩けますか?」
「ああ。そなたも来るか?」
「はい」
腹はまだ痛むが、包帯の下で、傷は塞がっているようだった。彼女と並んで部屋をあとにし、テラスに出た。夜風が心地いい。
「そなたの介抱に感謝する」
「目が覚めて、ほんとうによかったです。もし、あのまま」彼女は俯いて、言葉を切った。言葉の続きが気になって、名前を呼ぶ。
「あなたが死んでしまったらどうしようって、」
か細い声は震えている。彼女の濃い褐色の髪が、月明かりに濡れている。なぜだろう。彼女を見ていると、主を思い出す。顔を上げた彼女と視線が重なる。
「グランゼドーラの大橋で、私が力を使い切って魔物に不意を突かれた時……あなたは助けてくれましたね」
俺が記憶を取り戻す前のことを言っているのだろう。あの時は、マローネ様のお力で時渡りをしたばかりで、状況を把握するのに無我夢中だった。なにも覚えていなかった。けれど、絶体絶命の彼女たちを見て、助けねばと、気が付けば身体が勝手に動いていた。
「私がアンルシアを護らなきゃいけないのに、あの時私はなにできなかった。もうダメだと思いました。でも、あなたが助けてくれた。あなたがいなければ、私は今頃ここにはいません。……勝手かもしれないですが、その時はじめて、誰かに頼ってもいいと、あなたの背中を見て、そう思えたんです。あなたには何度も助けられてきました。今回も、助けてくれて、ありがとうございました」
彼女が一揖すると、夜風がふたりの間を吹き抜けた。
「こんな時にこんなことを言うのもおかしいかもしれませんが、伝えられずにいたことがあるんです。あなたの手を握ってあなたが目覚めることを祈りながら、目が覚めたら伝えようと思っていました。……私は、あなたのことが好きです。誰よりも……好きです」
彼女の透き通った青の散ったグレーの眸は、瞬く間に潤み、目尻からはらりと涙が溢れた。涙は次々に溢れて、頬を伝い落ちていく。
彼女は精一杯微笑もうとしていた。それでも涙は止まらない。名前を呼んで、示指の側面でそっと涙を拭ってやる。
「泣かないでくれ」
「ごめんなさい。こんな、つもりじゃ」
丸みを帯びた震える肩を見て居た堪れなくなり、彼女を抱き締めた。
「謝らなくていい」
腕の中で、彼女の生き生きとした鼓動を感じた。
「……ほんとうに、俺でいいのか」
柔らかく艶やかな髪に顔が埋まる。甘い香りがする。
「俺は不器用な人間だ。主に尽くし、剣を奮うことしか知らない。なにより俺はそなたとは生きる世界が違う。この戦いが終われば離れ離れになるかもしれない。それでも、俺を選ぶのか?」
両肩に手を置いて拳ひとつ分離れ、じっと彼女を見詰める。長い睫毛に囲われた眸には、強い意志が宿っていた。
「私は、どんなことがあろうともあなたのことを好きでいます」
重なった視線が逸れることはなく、それ以上言葉は必要なかった。涙の跡が乾きはじめていた頬に手を添え、そのまま親指の腹で顎を持ち上げる。
彼女が息を小さく吸い、目を閉じた。上向きの睫毛が長い。頭を傾けて薄桃色の唇を塞ぐ。一刹那触れるだけの口付けは、甘美なものだった。
「そなたを護り、愛し抜くと誓おう」
吐息が鼻先にかかる距離で呟いて、もう一度彼女を抱き締める。手放したくない大切なものが増えてしまった。征く手には愛がある。人の生というものは、実に面白い。