※ドマ城でのイベント直後の話なので本編後日譚は関係ないです
遠くで狼の遠吠えがした。
酒を注いだばかりの盃を口元に運びながら、ヒエンは咆哮がこだまするのを聞いた。静寂を破り、空気を震わせるそれは勝鬨に似ていた。
遠吠えが細くなり、再び静けさが戻り、ぬるい風が吹いて、叢雲が煌々とした丸い月を覆った。地上を照らす月明かりが欠けて辺りが真の闇に包まれた時、ヒエンは背後に気配を感じて首を巡らせた。
見えるのは漆のように濃い縹渺とした闇だけだったが、草履が砂利を踏み締める音がした。低く重い音からして、足音の主はよほど大柄なのだろう。
足音と気配に懐かしさを覚えて、ヒエンはふっと笑って言う。「今宵は佳い月だ。そうは思わんか?」
叢雲が去り、柔らかな白い月光が地上に降り注ぐ。
「さようでござるな。まこと、風情がある」
立っていたのは、ゴウセツだった。たしかに、ゴウセツだった。
ヒエンは黙って正面に顔を戻した。忠臣は、今はもうここからは見えないドマ城の天守閣で死んだのだ。亡骸は今も見付かっていない。生きていてほしいと何度願ったことか。
物の怪か、幽霊か。はたまた、夢か幻か。なんにせよ、酒を飲み交わすだけの時間をくれるのなら、なんでもいい。
「座れ。美しい月を見ながら一人で酒を飲むのも無粋だと思っておったところでな」
ヒエンはユウギリが来た時のために用意していた盃に酒を注いだ。一人だった影の隣に大きな影が並んで、ゴウセツは「かたじけのうござる」と身体を小さくさせて、恭しく盃をあおった。
「そなたに伝えねばならぬことがある」
ヒエンは空になった徳利を置いて、胡座を掻いたまま身じろぎした。
「ドマは解放された。民は自由になったのだ。リセたちも祖国を取り戻したぞ。復興に時を要するだろうが、東も西も、未来は明るい」
ゴウセツは一刹那瞠目し、すぐに目尻のシワを深くさせて穏やかに笑んで頷いた。
「それは良き報せにござる。カイエン様も喜んでおられよう。いかなる困難が立ちはだかろうとも、ドマの民は子子孫孫まで希望が持てましょう」
「うむ。ドマの民のために、わしも奔走せねばな。父上のようにはいかぬだろうが、わしなりのやり方で民を導いてみせよう」
酒を一口飲み、ヒエンは熱っぽい吐息を漏らして月を見上げた。希望というものは、いつだって胸を焦がさせる。そこから互いに何も言わなかった。二人の間には、水を打ったような静寂と、未来への情熱があった。
不意に。
「若」
ゴウセツの吐息混じりの声が闇に弾けた。
見れば、小さな眸が哀し気に瞬いている。
「拙者はお傍にはおられませぬが——我らの国を、任せましたぞ」
ヒエンはゴウセツを見詰めたまま歯を食い縛った。
「任せておけ。そなたも夢見た自由を、永劫手放しはしないと誓おう」
風が吹く。雲が流れる。月が隠れる。
もう一度月が現れた時、ヒエンの隣には誰もいなかった。満たされた盃だけがあった。
ヒエンは目を伏せた。それから盃を月に掲げ、一気に飲み干した。
ゴウセツがドマ城とともに散ってから、四十九日目のことであった。