煙と魂

 汎人類史に歪みをもたらす特異点を生み出した強大な敵を前にしても、未熟な戦士は逃げなかった。怯まず、臆さず、凜乎として采配を振った。
 魔力切れを起こしたせいでその身体は悲鳴を上げていた。込み上げる苦い胃液を足元にぶちまけ、血の気が失せて震えだした指先で流れ出る鼻血を拭い、藤丸立香は顔を上げた。黄金の散った眸には、揺るぎない闘志が宿っていた。
 白い頬の裂傷から流れる血が顎から滴り落ち、土に吸われていく。一陣の風が敵の裂けた腹より露出した臓物から立ち上る湯気を吹き飛ばし、立香の火の色に似た髪を靡かせていった。
 立香の強く握られた右手の甲に刻まれた令呪が一画、熱を持ち光った。彼女はありったけの力を込めてテスカトリポカに敵への追撃を命じた。
 砂塵が立ち込め、神の宝具はすべてを呑み込み、死へと誘った。

 丸二日眠っていた。
 完全に回復するまでさらに二日掛かった。
 酷かった動悸やめまいは治まって、全身を巡る血が逆流したかのような痛みも今はない。ねんごろに治療にあたってくれたネモ・ナースやアスクレピオスに感謝しなくてはならない。
 覚醒と浅い眠りの境界線を行き来する中で、誰かが傍にいる気配がした。耳元で「生きろ」と囁かれた。その声に呼応するように、雲散していた意識が形を成し、心臓が生き生きと脈打った。
 目が覚めた時にこちらを覗き込んで手を握ってくれていたのはマシュだった。しかし、一度だけ「生きろ」と耳元で囁かれた声は、マシュのものではなかった。
 あの声は――テスカトリポカのものだ。
 何度目かのメディカルチェックを行い、問題ないとの診断を受け、数日振りに日常に戻ることができた。シャワーが気持ちよかった。
「ご迷惑をおかけしました。この通り元気になりました」
マシュと共に所長や職員たちに挨拶をして回り、サーヴァントたちに顔を見せ、みんなと食事をし、気が付けば夜になっていた。テスカトリポカの姿はどこにもなかった。
 食堂を出て、ひとりになって、自室に戻ることにした。なんとなく、テスカトリポカがいるような気がした。
 ドアが開くと、部屋の中は明るかった。ベッドには、テスカトリポカが腰掛けていた。
「よう、数日振りだな。こういう時は、「おかえり」と言えばいいのか?」
 テスカトリポカは眉間にシワを寄せて笑った。背後でドアが閉まった。
「うん、ただいま」
 安心感が胸に広がって、吐息をついて彼の隣に腰を下ろす。心地いい沈黙が部屋の中を漂った。
「あなたの声を聞きました」膝に置いた手を握る。「傍にいてくれたんですね」
「まあな。目が覚めたら褒めてやろうと思ってな。ゲロを吐いて鼻血を垂れ流すオマエの姿が忘れられん。限界を超えて戦う姿というのはとてもいい。見事な戦いぶりだったよ。戦士の輝ける心臓が熱く速く脈打ち、魂が燃える……あれほど素晴らしいものはない」
「なりふり構わずに戦ったんですけど……うん、勝ててよかったです」
「オマエは勇敢に戦ったさ。生存とは勝者の証だ。誇れ」
 テスカトリポカは笑みを浮かべた。サングラスのレンズの奥で、切れ長の目が細まる。眸には見慣れた親しみがあった。
「わたし、生きてます」
 手を添えた胸の下では、心臓が静かに規則的に拍動している。今この瞬間も、わたしはたしかに生きている。
 わたしの魂は、いずれ戦場で燃え尽きるかもしれない。次に目が覚めた時は医務室のベッドの上ではなく、ミクトランパの入口に立っているかもしれない。濃霧と静けさの中で、焚火の前でまどろんでいるかもしれない……
 それでも、立ち止まるわけにはいかない。
 戦わなければならない。
 進まなければならない。
「次の戦いに備えておけ。その前に、今夜は存分に甘やかしてやろう」
 テスカトリポカの頭に大きな手が乗って、優しく撫でられた。
 彼に身を委ねると、心臓が高鳴った。魔力が満ちた肉体は生き生きとした熱を放っている。
 降りてきた深い夜の帳が煙と魂を覆う。ひとときの安息は、夜の色をしている。
 戦神の煙に包まれたわたしの魂は、火のように赤々と煌めいている。