※イベントで頒布する予定の全年齢のシリアス本でした。諸事情により参加を見送ったため、全文公開します。
四世紀頃のアジアと推測された特異点に降り立って間もなくしてストーム・ボーダーとの通信が途絶えたが、異常事態にも冷静に対処する訓練は受けている。マスターである立香がやることはひとつ。身の安全を確保し、特異点の修復をすべく調査を続けることだ。
同行した適性サーヴァント三騎のうち、レイシフトの際に一騎とはぐれてしまったが、立香の傍にはテスカトリポカと陳宮がいた。
勇猛な戦士たちを祝福する戦いの神と、勝利のためならいかなる犠牲も厭わない参謀。相性がいいのか立香にはわからないが、なんとかするしかない。
立香はまず、陳宮には絶対に宝具は使わないように釘を刺した。彼は涼し気な顔で「マスターがそう仰るのであれば、従いましょう」とテスカトリポカを一瞥して言った。そのあと「しかしながら、自爆しかない時は」と続けたので、立香は必死に止めた。
「まずは情報収集をしなきゃだね。この森を北に進めば街があるってダ・ヴィンチちゃんが言っていたから、そこに行ってみよう。ゼノビアもそこにいるかもしれないし。どうかな?」
「最善策かと」陳宮が頷き、歩き出した。
テスカトリポカはなにも言わずに横を向いている。
「テスカトリポカ?」
白い横顔を見詰めて名前を呼んだが、彼は立香の方を見なかった。サングラスの奥で瞬きもしない青い眸が向く先には、生い茂った風に揺れる樹々があるだけで、立香には彼がなにを見ているのかわからなかった。
歩き続け、森を抜けると、岩場に出た。隘路を覚悟したが、聳え立つ岩壁と岩壁の間は広い。それに、剥き出しの自然そのままの風景だが、人が往来しているらしく、森の中と同じく踏み慣らされていた。しばらく進むと大河が現れた。川の向こうには灰色の無機質な高い壁が見え、奥には瓦葺き屋根の建物があった。城だ。
大河を臨む岩場を下り、高低差があった道が平らになると、目の前は見渡す限り広大な平原へと変わった。城までまだ距離があるが、陽が落ちる前には辿り着けそうだった。
陳宮が西の方角に橋が見えるというので、そちらから城に向かうことになった。
「ふむ。この地形……まるでかひじょうのようだ」
城を見据えた陳宮が剣呑と眉を寄せて呟くのを立香は聞いた。
――かひじょう。
どこかで聞いたことがある……歩きながら立香が記憶の糸を手繰っていると、不意に地響きがした。
「くるぞ。構えろ、マスター」
立香が振り返ると、テスカトリポカはスーツから黒色の鎧姿になっていた。
「マスターは私のうしろに」
陳宮が竹簡を広げて立香の前に立った。エネミーの襲来は突然だった。立香たちが歩いてきた岩場の方向から、砂煙を上げてなにかが迫っていた。先頭には騎兵。そのうしろには重装備のケンタロウスが十数騎いた。頭上には三体のワイバーンまでいる。
「ちょ、ちょっと多くない?」
「そうでしょうか。軍にしては少ないと思いますが」
陳宮の冷静な声が熱気で震える空気を冷ましていく。
「話し合いは無理そうだね」
「無理でしょう。ご覧なさい、あの先頭の将の顔を。父親を殺されて怒り狂った曹操のようです」
立香は歯を食い縛った。戦う準備はできている。
「全軍突撃せよ! 敵兵を生かして帰すな!」
百メートル以上先にいるのに、先頭で戟を構えて馬を駆っている髭面のエネミーの怒号が鼓膜を震わせた。あれが大将だろうと立香は直感した。大将が被っている兜と着込んだ鎧は古代中国の武将を彷彿とさせた。半人半馬と空飛ぶ竜がいるが、まるで三国志の世界だと立香は思った。
「テスカトリポカ! お願いします! 陳宮は援護して!」
心臓が早鐘を打ちはじめ、アドレナリンが全身を駆け巡る。
テスカトリポカが走り出し、軍旗をはためかせたエネミーの大群と衝突した。彼の姿はエネミーに呑まれて見えなくなったが、悲鳴や狼狽える声がし、血飛沫が舞った。
「温情なく」
陳宮の攻撃が容赦なく打ち込まれていく。遠くにいるのに、濃い血のにおいが風に乗って漂ってくる。
魔術礼装のスキルでテスカトリポカを支援する。
「テスカトリポカ、宝具を!」
言い終わる前に地面を割って「今を生きる死」が現れる。巨大な髑髏の顔を見上げて慄く者もいたが、テスカトリポカは戦場で臆する者を認めない。黒き太陽は敵を一掃した。生温い風が吹いて、舞い上がっていた砂煙をさらっていく。
「いやはや、見事、見事」
陳宮の小さな賛美のあと、血腥い静寂が戻ってきた。一面血の海だった。かろうじて原型を留めたケンタロウスたちの死体が積み重なっている。折れた槍や弓矢、持ち主をなくした血塗れの軍旗が大地に突き刺さっていた。巨大なワイバーンにいたっては、肉の一片も残っていない。屍山血河の光景を前に、立香の五感の一部が麻痺していった。握っていた拳から力を抜いて、辺りを見回した。テスカトリポカの姿はない。
「……テスカトリポカ?」
名前を呼んだが返事はない。急に不安に駆られた。
「終わったな」
頭上から声がして、立香は弾かれたように上を見た。
三メートルほど高い位置にある岩の上に、太陽を背にしたテスカトリポカがいた。彼は筋肉が詰まったしなやかな身体で足場が悪い岩場に真っ直ぐに立っていた。黒曜石の義足で盛り上がった岩の先端をしっかりと踏み締めて。
「戦士の霊であれば歓迎する。それ以外はやり直しだ」
風が一陣吹き抜けた。逆光に立つテスカトリポカの長い金色の髪が靡いて、冷ややかなほどに整った白い顔が露わになる。頬から顎にかけて真っ赤な血が太い筋を描いていた。目立たないが、返り血を浴びた黒い鎧は陽光を反射させてぬらぬらと照っている……見上げている鬼気とした光景を恐れるべきなのに、苛烈な戦いに身を投じて敵を屠った戦神の姿が気高く厳かに見え、立香は圧倒され、息をするのを忘れてテスカトリポカを凝視した。
――ああ、そっか。戦いの神様なんだ……
胸に込み上げたのは――陶酔だった。
勇猛果敢に戦った〈ジャガーの戦士〉たちも、もしかしたらこんな気持ちで崇める神の姿を思い浮かべ、鼓舞されていたのかもしれない。肺腑にこもった熱情を吐き出して、立香はただじっとテスカトリポカを見上げていた。
テスカトリポカは、己を仰望する立香の眼差しに〈ジャガーの戦士〉の面影を見た。
かつて誇りを胸に死ぬために生きた太陽の民たち……戦場で己の化身として勇ましく戦い抜いた戦士たち……ミクトランパで救済した数多の魂たち……懐かしさが戦いで滾った血を冷まさせていった。テスカトリポカは己が笑みを浮かべていることに気が付かないまま立香を見下ろした。
それからおもむろに視線を遠くの城に向けた。あの城は、陳宮が苦い顔をして「まるで下邳城のようだ」と言った通り、彼が最期を迎えた場所に似ているのだろうとテスカトリポカは読んでいる。
――この特異点での適性サーヴァントは、皆敗者として歴史に名を残した者たちだった。
謀反を起こし戦乱に散った謀臣。
恥辱を味わわされた東方の女王。
滅亡した文明の神であるテスカトリポカもまた歴史の翳りを知っている。しかし、己が選ばれたのは、勇ましく最期を迎えた敗者に安息を与えてきたからではないかと考えていた。
敗者といえども、彼らは汎人類史に爪痕を残した。時代や場所は違えども、最期まで戦い、たしかに生きたのだ。彼らの崇高な魂は賞賛に値する。
「さて。行くとしよう」
鎧からスーツ姿に戻り、テスカトリポカは岩から飛び降り、バランスを崩すことなく着地した。立香と陳宮が血溜まりに背中を向ける。
「立香」
血のにおいを吸い込んで、マスターを呼び止めた。振り向いた彼女は長い睫毛に囲われた眸を瞬かせた。
「はい」
「オレの見立てだが、この特異点の連中は、戦いで敗北したヤツらだろう。自分たちがかつてどこかで敗者となったことを理解している。敗北を知っているからこそ勝つために戦う。生きるために戦う。血で血を洗う殺し合いになるぞ。生半可な覚悟で挑もうと思うな」
陳宮の細い眉が僅かに動いたのをテスカトリポカは見逃さなかった。
「わたしだって、絶対に敗けられない」
立香は胸元で令呪の刻まれた手を強く握った。
「わたしにも戦う理由がある」
声は控えめだったが、言葉の端々に強い意志がこもっていた。
「力を貸して、ふたりとも」
未熟な戦士の熱き鼓動を感じ、戦いの神はゆっくりと頷いた。
「いい目だ。戦って生き延びろ。必ず勝とうと堅く決心した戦士だけが道を拓ける。オマ
エさんのサーヴァントとして、オレも尽力しよう。なあ、参謀?」「もちろんですとも。神算鬼謀をもって勝利へと導きましょう」
「ありがとう、ふたりとも」
立香は俯き、ふーっと息を吐いてから顔を上げた。表情は、煙塵に吼える戦士と同じだった。
「よし、行こう!」
琥珀色の双眸が真っ直ぐに目的地を射抜く。歩き出した三人の頭上では、太陽が輝いている。燦燦と降り注ぐ光は、平等に命を照らし出していた。