鶴見と亡霊

 軍医に前頭部の術後の経過を診てもらうために、兵舎の北側に設けられた医務室には、月に一度必ず足を運んでいるが、医務室は相変わらず薬品臭かった。朝から雨が降り続いているからだろう、室内の空気は冷たく、湿っぽく、それに加えて、燈が灯っていても仄暗かった。雨天というだけでこんな風に暗鬱とした雰囲気になるとは知らなかった。療養する兵士も、これではよくなるものもならないだろう。ただちに環境を変えなくてはならない。薬品の臭いに包まれ、日夜ここにいる軍医もきっと、雨の日はうんざりしているに違いない。

 壁際に置かれた木製の診察台に浅く座り、鶴見は入口の横の洗面台で手を洗っている軍医の背中を見やった。    

 軍医は憐みの視線に気付くことなく、洗った手を清潔な綿紗の手帛(てはく)で拭くと、丹念に消毒液をすりこみはじめた。

 それから、鶴見の目の前まで椅子を引き摺ってきて、そこにゆっくりと腰を落とした。

「お待たせ致しました。拝見致します」

 鶴見は軽く頷き、握った拳を膝に載せて、会釈をするように、やや頭を下げた。影が被さり、軍医の手に染みた消毒液の刺激臭が鼻を突く。前頭部に密着した鉄製の保護具に掌が添えられ、保護具を固定している後頭部の帯革が緩められた。顔を正面に戻す。頭がふっと軽くなった。

 両手で包みこむように持った、温もりが残る保護具の内側をまじまじと眺めてから、軍医は小さな哀しげな目を瞬かせて「具合は如何ですか?」と言った。一瞬目が合ったが、軍医の視線はすぐに鶴見の額へと逸れた。

「最近変な汁がよく出る。怒る(いか)と、特に量が多い」

「それは、あまりお怒りにならないほうがよいかと」

「難しいことを言う」

「鶴見中尉殿が憤慨なさるとは、よほどですな」

「悩みの種は尽きんものだ」

「はっは、仰る通りです」

 節くれだった軍医の指が、こめかみ周辺の剥き出しになった皮下に触れた。焼け爛れて硬くなった肉色の組織部分は、触れられても感覚はなかった。

「雨の日は、傷痕が疼きますかな?」

「いや。平気だ」

「他に懸念されていることはありますか?」

「そうだな、ひとつ……」

 鶴見は言葉を切り、顔を顰めた。眉も皮膚もないから、両目が細まっただけかもしれないが。

「ひとつ?」

 軍医が続きを催促するように復唱したが、鶴見は口を噤んだ。

 雨音だけが耳朶を打った。窓から閃光が差す。一拍置いて、くぐもった雷鳴がとどろいた。

 先に口を開いたのは、鶴見だった。

「気にするな、忘れてくれ」

「しかし」

「ほんとうに、たいしたことではないのだ」

「左様ですか」

 彼はそれ以上のことは訊かず、口端と目尻の皺を深くさせただけだった。

「良好です。ですが、些細なことでもなにかあったらすぐに申し付け下さいますよう」

「すまんな。助かる」

 鶴見は口の端を持ち上げた。

 この男には、世話になっている。一軍医として日露戦争に出征し、清潔な包帯や、消毒液といった衛生材料が欠けた野戦病院で、多くの負傷兵をねんごろに看護し、時に悲痛なる最期を見届けて瞑目してきたであろう彼は、奉天会戦で、砲弾の破片を前頭部に受けて倒れ、前線から担架で運び込まれたものの、その凄惨さ故に死体と間違われた己を見捨てずに生かしてくれた恩人だ。

 慎重に、再び保護具が取りつけられた。弛んだ帯革が後頭部できっちりと締まると、額が隙間なく覆われ、慣れた重さが鶴見の頭部に戻った。

「それでは、また来月に」

「ああ。よろしくたのむ」

 触診を終えて腰を上げた軍医に倣い、鶴見も立ち上がる。

 軍医の翻った白衣の裾を一瞥すると、頭上で燈が瞬いて、足元で影が傾いた。

「厭な雨だ。野戦病院を思い出してしまう」

 静かな声に、鶴見は振り返った。

 軍医の視線は、窓の外に向けられていた。

 鶴見には、今のが独り言なのか、そうでないのか、わからなかった。

 鶴見は執務室に戻ると、燈もつけずに窓辺に寄った。風が当たって、振動で窓枠に嵌った窓硝子がかたかたと鳴っている。

 黒灰色の分厚い雲が、北の大地の澄み切った冬空を覆っていた。雨はまだ当分止みそうにない。風も強い。今夜は、嵐になるかもしれない。

 窓硝子を滑り落ちていく大粒の水滴を見詰めていると、白い雷が大地を裂いた。閃光に照らし出された室内が窓硝子に反射する。

 なにかが、背後にいた。

――またか。

 鶴見は振り返らずに、半眼で窓硝子に映った「それ」を見据える。触診中にも「それ」は軍医の肩越しに見えていたが、彼には言えなかった。存在するはずのないものが見えるなどと、言えるはずもない。

 脳の欠損によるものが原因なのかは鶴見自身も判断しかねるが、砲弾の破片によって、額の皮膚が焼け、頭蓋骨が砕け、脳が少し欠けてから「それ」が見えるようになったことは確かだった。「それ」が鶴見を悩ませていた。

 最初に見えるようになったのは、黒い靄だった。視界の端に映る「それ」が日に日に形を成していることに気付き、いつしか、はっきりと認識できるほどになっていた。

 今では、見えるのは決まって、血溜まりに転がった複数の兵士の骸だ。

 軍服の布地はずたずたに裂け、肉は飛び散り、骨は突き出て、腹からは湯気を立てて臓物が零れ出ている。中には血がまだらに染みた白い襷を腕に括らせた骸もあり、引き千切れた襷の端は、風もないのに揺れている。

 無論、晒された骸などそこにはないのだ。己が見ているのは幻覚だ。

 しかし、それは今にも腥気が漂ってきそうなほどに生々しく、おどろおどろしい。

 積み重なった形骸の、光の失せた奈落の如き(まなこ)が、じっと鶴見を見ている。

――許せ。

 かつて、戦場で銃弾から身を護るために事切れた部下の身体を盾とし、数多の同胞の屍を踏み越えてきた時と同じくそう呟いて、血腥い幻は消える。

 そして、言葉にするたびに思い出すのだ。

 銃弾が盾にした肉体に着弾し、肉が弾けて削げていく瞬間の湿った音を。己の黒い軍服に染みていく返り血の生温かさを。足元で折り重なった兵士たちの、血と臓物に浸った柔らかい身体を踏み締めた時の罪悪感と、軍靴の裏から伝わる死の感触を。

 内地の常設師団とは違い、屯田兵を母体として編成された第七師団に出征の命が下った時、いかに戦況が不利であるかを思い知らされ、二〇三高地を攻略するように進言していた海軍に反駁し、重要視しなかった陸軍上層部の愚かしさを酷く怨んだ。

 旅順攻略に必要不可欠な地であると大本営から圧力を掛けられ、漸く動き始めた時には遅過ぎた。二〇三高地を陥落させるために、陸軍は全勢力をもって露西亜軍に真っ向から臨んだが、それはあまりにも無謀な戦法だった。

 拠点を奪取し、かの地に旭日旗を突き立てる――。

 それだけを目標に、旗鼓堂々、兵は皆奮然と突撃し、敵兵を見ることなく砲撃や銃弾を浴びて散っていった。露西亜との干戈は、実に多くの犠牲を払っての勝利だった。

 戦死者の骨は、未だ海の向こうの荒涼の地にある。

 凱旋し、形だけの戦友の墓前で肩を震わせ暗涙に咽ぶ兵士を幾度も見てきた。その並んだ背中に、かつての勇ましい剣光帽影の面影はなかった。生きて祖国の地を再び踏み締めても、彼らの心は、魂は、ただいたずらに彷徨っている。

 果たして、疲弊しきったこの国に、燦然と輝く未来があるのか? 

 不毛の地に戻り、腹の底にあった虚しさは怒りへ変わった。淘汰すべきは軍の上層部だと確信し、時代を諦観した革命が必要なのだと気付いた。

 そのためにはまず、この北の大地から変えていこう。この広大な大地は、氷で閉ざされたままではならぬ。己が裨益となり、革命を成し遂げてみせよう。

 それが己の使命であり、英霊への敬意なのだから。

 たとえ己の目的を夢物語だと嗤う者がいても、離反する者がいても、冷厳に見据えた未来のために進まねばならない。

 御国のために果てた者たちの鬼哭も、遺された者たちの悲泣にも耳を傾けよう。

 この痛みを、決して忘れはしない。

 だから――どうか。

「赦せ」

 声に出して呟き、目を閉じる。

 もう一度目を開いた時には、骸はすべて消えていた。

 額の覆いに手をやって、鶴見は歯を食いしばった。

 隙間から、熱い液体が流れ出た。

 液体は瞬く間に鼻筋を伝い、口髭を濡らし、顎鬚の先からぼたぼたと滴り落ちて、窓枠に丸い痕を作った。

 窓の向こうでは、雨が勢いを強めている。

 地に打ちつける雨音は、鳴りやまぬ銃声に似ていた。